カルドセプトDSの改造をはじめました

クラック界のハローワールド「バイナリ比較」を試みたんですね。

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しかし524KBという膨大なセーブ容量を前に目的のデータが見つからないまま夜が明けたのです。眠い。少しは寝たけど。バイナリって時点で暗号だと勘違いする人もいるかもだけど、保存する時にアドレスをバラバラにする暗号化が入っている様子。

ほんの少しだけゲームを進めて差分を取ってもセーブデータが全然別物になるんよね。

やってみて分かったことはバイナリ万能とやる前からナメていた俺は「にわか」でした。ほんまリバースエンジニアリングってやつは骨が折れる割に積み立てるものが無い。解けたらそれまでの苦労が全て一気に報われるけど、解けなかった時にそれまでにした作業には生産性が無かったことになるのが辛いよな。

それならルールとしてどこそこの数字が高いのが勝ちだとしても、偉いのが得ってもんでもないだろう。ゲームを遊んだほうが絵が動いて音楽が鳴って普通に楽しめるわけで、遊ぶのが得とも捉えられる。

改造を試みる前には今のこの価値観には辿り着かなかったわけで、失敗は生産性がないと言ったが試み自体は有意義だった。「農作業体験で都会の良さを知る」みたいな。

 

今日の新世界樹の迷宮(16階を踏破した)

近頃ロープレ養分が足りない気がして「新世界樹の迷宮」を再開した。

DSの世界樹はかなり時間をかけて遊んだ。プレイ時間自体は短いがインターバルが長く、少し進めては「こう育てたいな、ウフフフ・・・」と妄想を膨らませて放置して思い出してはまた遊ぶの繰り返しで、その間にDSで世界樹IIと世界樹IIIが出てようやく初代世界樹を解いたら3DSの新世界樹が待っていた。

それで新世界樹を迷わず買ったけど、DS版の世界樹と物語がほとんど同じリメイク作品なので開始直後からどこか飽きていて、寝かしておいたら段々と忘れてまた遊ぶのが楽しくなってきた。

そして第四階層に着くと音楽が変わるので、気分も新鮮だ。3DSに買い換えてすぐは気づかなかったけどボリュームを上げると音質も良く、また楽しめる。

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そして16階をほぼ踏破してシナリオは進む。何がどう進むって?

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そう、モリビトせん滅作戦。

でもモリビト殺しちゃうなんて可哀想だよと思うので、ここでミッションは受領せずに新世界樹はまた寝かせることにした。また遊びたくなったら、その時はミッションを受領しよう。(それは今日の晩かも知れないけど)

なんか最近ね、もうゲームデザイナーとか辞めちゃって出ているゲームを色々と嗜むだけでも充分じゃないかって思えてきてるってか、ゲーム作っているからといって「あのゲームはこうでしょ」と類型で語って誰かが丹精込めて作ったものを遊ばないで捨て置くわけにも行かないなってのと両方かな。佳作を遊んでそれを超えるものを目指すってのな。しんどいよ。世界樹面白すぎるんだもん。

俺はわりかし子供っぽい趣味が残っているので「本とか何読みますか?」って聞かれた時に趣味全開で話すと「そういうのって高校生くらいまでで読み終えておかないと辛くないですか?」とか返されて、精神年齢の醸成とかも読書量と何を読んだかにかかっていて「スキルはプログラミング全振りで趣味は格闘ゲーム」というキャラ設定で10年くらいやったので、その分やっぱ趣味性向が育ってないのかもな。

プログラマーなんてのも大体の人は3年くらいやれば飽きるという。ゲームも年食うと辞める。けど、それって充分に自分の時間があって趣味でプログラムやゲームをする時間があるから楽しんだ結果として飽きているのであって、知りもしないのに年を食うと飽きるってもんでもないだろう。だから、知らなかった人が始めてみたら「どうして今まで俺はこの世界を知らなかった!」と思わせるのもゲームの世界であって、多くの人にとってそれはケータイで基本無料で原体験になってるんだよな。

つまりだ、俺にも飽きるほどゲームで遊べる暇な時期が来たってことを歓迎すべきでゲームをつまらなく感じるようになるのを憂うことはないんですよ。

物語と、その没入感を高めるためのゲーム

ドラクエが国民的ゲームと思っているのはゲーム機で遊ぶゲーマーだけで、将棋やオセロにトランプに麻雀といういわゆるテーブルゲームで遊ぶ兄弟で育ったものからするとロープレは「ぼっち遊び」でつまらないって考え方もあるよね。

ただし、ゲーム機全般とケータイゲームも入れるとオセロなどの対戦型テーブルゲームよりデジタルゲームのほうが人口の多さで言うと圧勝になる今の時代。ドラクエはその代表というよりかは40代くらいの子供の頃にファミコンでぼっち遊びを体験した世代の共通言語としての意味もある。なにせマリオやテトリスは言葉にして語られることはないが、ファミコンドラクエは画面に文字が出るので「スライムつむりはようすをみている」とか「かいしんのいちげき!」などを読み上げると「こいつ、それ遊んだな」と分かるし、もともと両方がドラクエというぼっち属性を分け合っているのだから仲間意識を生みやすい。

英語が中学生からって時代に育ったせいか、中学生で英語を覚えると洋モノ移植やファイナルファンタジーカタカナ語の意味がちゃんと分かって、そっちのほうがカッコイイと惹かれる部分もあったけど、ドラクエウィザードリィの「クリティカルヒット」を「かいしんのいちげき」に訳したところが日本語とゲームの両面に深い知識があることの表れだ。ウィザードリィの日本語版ではクリティカルは「くびをはねた」で残酷すぎるし、サイコロで攻撃の威力が左右されるゲームの中で毎回戦う中で「自分でも上手く行ったと思う」ということを「会心の」という表現することは子供には出来ない。小学校低学年だった俺は親父に「かいしんってどういうこと?」と親父に聞いて、親父が嬉しそうに「自分でも上手いこと行った!と思うことやで」と教えてもらうことが出来た。だから、いくらゲーム業界で偉い先生が凄そうに語っていても「かいしんのいちげき」の「会心」がタイプミスだろうと「改心」とかになっていると興ざめする。

まあ、俺のブログもだだっと書いているから誤字とか文脈のおかしさはあるけどな。会心間違うか?と思うとかなりの減点。

そんで、タイトルに話題を戻すと、ロープレってのは野菜を食べない子供にお母さんがハンバーグに野菜を混ぜて食べさせるように、ゲームという甘い誘いに乗せて子供に文字を読ませる知育玩具的な側面があると思うんだよね。

そういう意味では堀井褒めというのは小学生でも「くびをはねた」が残酷で「かいしんのいちげき」が大人な言い回しであることを理解して、俺の場合は親父が言葉をよく知っていたのが幸いだった。ただし、その点に絞ってドラクエを褒めているが、ウィザードリィも「くびをはねた」は滅多に作れない最高の職業「NINJA」の特権で、普通の職業で「ATTACK」を選んでも「きりかかった」「はげしくついた」などと文章がランダムで変わる。この文章とサイコロ目の相関関係などはさておき、それを繰り返し読んで、やがてゲームの戦局に影響するダメージの数値だけを見て文章は読み飛ばすようになったな。だから結果そうなってロープレの戦闘は数字のシーソーだと後から決めてしまうんだけど、よくよく掘り返すと文章生成プログラムの側面もあるんだよね。

そう考えるとゲームを作る時に根本として「点取りゲーム」であると出発してしまうのは偏っている感じがするよな。子供の頃にお母さんがハンバーグに野菜を入れてくれたのにハンバーグが好きで大人になったらステーキ食ってるみたいなさ。

物語よ、お前はどこから来てどこへ行った?まあ、今のゲームは戦闘を文章で回すのでなくキャラの動きや成否のアニメ効果で示すので文章力よりアニメ絵の上手さで決まってるからな。文字に触れることだけが子供にとって良いことと判じるのも偏見だから、もし親御さんがこれを読んでも「うちの子もロープレさせたほうがいいかしら」なんて思う必要は無いかもですよ。

ゲームで文字を読ませるには先ず文字より簡単な数字のゲームで勝たせ喜ばせてゲームを好きにさせてゲームという誘いに載せたロープレゲームに誘導するという二段構えが必要なので親御さんが読書好きで子供が真似して読むなんて状況に比べたらいくらゲームで釣っても「これ面白くない」とポイッとする子供もいるわけで。

だからやっぱりドラクエってやつはゲームとして認知されているけど、本質は見るもの読むものなんですよね。


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