Aサガット・ブランカ・ベガでGP稼ぎ始めました

格闘ゲームって「メンコのごとくキャラ同士をぶつけたら強いほうが勝つ」ってもんでも無いと思うんだけど、ネットで論戦する人って上手いのか下手なのか知らんけど「論理的にこっちのが強い!」って言いたいみたいだよね。

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あと、キャラの絵の好みでキャラを決めるのは分かるけど、俺の場合は「強いとカッコよく見える」という補正が間違いなくかかっている。

ところでAサガブラベガのAサガットって「サガットは強いけどAグルとの相性はイマイチ」言われそうなんだけど、オリコン抜きで使いこなせるキャラがチームに入っている安心感みたいので選んでみました。エアプの2ちゃんねらーくらいサガットで3タテしたるわ!と思ってます。

そんで「このチームで良い」と思ったのはAサガットが意外にハイスコア強キャラで昨日今日でGP2800まで出てる。

カプエス2と並行してストIIXも以前はよく遊んだ。そのストIIXはXガイルで北米チャンプになってから対戦をあまりしなくなって、ひとり用でスコアやるようになった。そんでストIIXのハイスコアってXケンが強キャラなので、ゲーセンにひとりでふらっと入って暇潰すのにXケンでスコアやるのが丁度良くて、それで十分面白い。それで乱入対戦が来て負けた時はそのまま席を立って帰る。

ゲーセンで対戦を勝って良いところを見せたつもりでも、99%の人は「100円でどれだけ遊べるかが上手」と思っていて、強い相手に挑む人は「お金をジャラジャラ入れてコンティニューしている人」と見られていることに気付いたんだよね。

だから対戦で5連勝くらいして、相手が連コインして6回目で負けたら勝率としては8割以上あって、かなり勝っているんだけど、ゲームオーバーになったと思う人が多い。

それらを総合すると、強いキャラでスコアが高いキャラなら文句なしにコンピュータ戦をひとりで遊んで、そして負けた時は潔く席を立つということを心がけていれば、誰に勝って誰に負けたから自分の順位はこれくらいだなというゲーセン常連同士の暗黙の順位感みたいのではなく「ひとりふらっとやって来て誰とも知れず連勝してクリアして帰っていく人」に見られるのかなと思うようになった。

昔みたいに閉店まで対戦してて店に入ったら出てこないの、傍から見て謎だったみたいやね。モンテの横のたこ焼き屋のおっちゃんは「ココのゲーセン日本一上手い人とか来るらしいやないか!兄ちゃんら頑張ってんなぁ!」とか言ってたこ焼きを売っていたが、果たして対戦格闘ゲームの世界をどれほど分かっているかは今考えると怪しいもんだ。

ネット対戦とツイッターが世界の人とか、2ちゃんと動画観戦が趣味の人とか、そういう人から見たら俺は「いない人」かもしれんけど、まあ自分なりの世界観があるわけです。

ストIIXは乱入対戦を続けると相手プレイヤーキャラに勝った点数もハイスコアに加算され続ける仕様だから、雑誌ハイスコアは乱入なしコンピュータ戦が条件だったけど、ゲーセンでのスコアランキングは勝ったやつが点高いというあまりにも分かりやすい図式だったなぁ。

ブログをライフワークにするのやめてみた

毎日ブログを書くことで自分の考えを自分で確かめて自己肯定感は高まったのだが、ちょっと2ちゃんねるで遊んでくると他の人の意見が入って、そのほうが客観視が出来る部分があって言い負けたときなどはダメージが入るが、その後さらに良くなる。

俺はフタを開けてみるとヨコシマな人間なのであるが、若い時には「自分は悪くない」という思いが強く、人から悪者にされることを嫌い格闘ゲームでも「強いキャラは悪い」と誰かが強弁すると引き下がって弱いキャラを取りバリアを張っていた。

しかし、大会とかになるとそういう弁よりも結果のほうが重んじられるので普段は人の輪の中で弱いキャラを取り、大会で強いキャラに変えるとやりこみが足りなく、かといって弱いキャラだとハンデを背負うことになる葛藤とずっと戦ってきた。

んで先日もカプエス2をA恭介・ダルシム・ケンという弱そうなキャラで練習してみて、これなら野試合で少し賑わすことは出来ても勝てないだろうな、普段使わないキャラで遊ぶのは新鮮なもんだなと思いながらも無駄なことやってる感に苛まれた。

それが色々あって、Aサガットブランカ・ベガでひとり用をクリアしてみた。なんかこう、吹っ切れた感覚があって、強いキャラだと持て余す感じがありながらも、その中でさらに上を目指して取り組むべき課題を丁寧にやり続ける。人の評価を気にして半ば誰かに操られた状態で弱いキャラを練習するよりも、評価は後からついてくると未来を見据えて取り組むってことを分かってなかったんじゃないかと思った。

日課のアイソメトリックに加えてバイシクル腹筋を追加して1週間ほどが経つ。どれくらいで目に見える形に効いてくるのかはまだ分からないが、無理せず出来る分量を毎日継続的にやるとやがて変化することをギターの稽古で学んだ。いっときを踏ん張る根性と、結果がなかなか見えなくても焦ったり嫌になったりしない計画性とか楽観性とか、あきらめない持続力みたいの。頑張るって言っても色々あると思うようになった。

あと、マクドの4枚ダブルバーガーを食った。食のアメリカ化は庶民レベルでもここまで進んだかと。貴乃花落選のニュースのパネルに並んだ親方の顔ときたら。年功序列の世の中で待つことの辛抱強さとか。東大医学部で司法試験に合格した神脳も面白かった。世の中は自分のアクションでたちどころに変えられる部分とそうでない部分があって、だからといってすぐ変わらないものをずっと変わらないと簡単に思い込んで諦めてはいけないものだって教えてもらっている気はするよね。

俺の辞書の「瞑想」意味を考えてみるよ!

楽しみに読んでいたブログがひとつ終わって、ひとりで仕方なくブログを続けているのだけど、いつも「イイね」を押してくれる「たまにチェンコ」さんが仏教好きみたいなので、俺もなんか仏教ぽいっことに寄せていく! 

めいそうさう0冥想スル目を閉じて心を静め,無心になって想念を集中させること。にふける〔明治期に作られた語〕 

 仏教というと瞑想である。お仏壇の前に座って目を閉じて木魚とか鐘をならして手を合わせてしばらくじっとする。子供の頃は大人がみんなそうするから、真似してそうした。心を鎮めるとか、無心になるって言われてもどこか分からないところもあるだろう。

ここで、瞑想という語を漢字ふたつに分解してみよう。

暝とは。ご冥福をお祈りしますと言うと死んだあと天国に行けますようにと言うような意味である。冥界とは死後の世界のことである。このように冥が付くということは死を意味するということであり、中国語では「暝」に意味があるかもだけど、日本語でメイというとギルティギアの海賊少女のことであるが、漢字で暝と書く時は死に近い。

暝を想うわけだから、死んだと思ってみるということでは無いだろうか。つまり、シャ乱Qの「俺が死んだら誰か泣くかな寝る前たまにそんなバカな事とか考えたりした」は俺の辞書では瞑想なのである。

死んだら、どうなるかは分からないが、地獄や天国を想像している状態はまだ死が分かっておらず、死んだら無になるということが悟りの意味ではなかろうか。

しかし、人間は無は想像できないものだ。「俺って今考えていないぜ」ということを考えたりしてしまうものだ。まあ、形だけでも目を閉じて祈るうちに言葉をイメージせずに暗闇の中で聞こえる音に身を任せる感覚になることもあるが、俺のイメージとしては無とはデカルトの「コギト・エルゴ・スム」つまり「我思う故に我あり」の発見に近い。死をイメージして目を閉じ、暗闇の中で自分を見つけるのだ。

まあ、そんなだから仮面ライダーゴーストの「我等思う故に我等在り」は人はひとりで存在するものではなく他者との関わりの中での存在を見つけているわけで、我思う故に我ありという個の発見では死は無を意味するという世界観になってしまうが、我等思うというつながりへの気付きは死は細胞がひとつ死んだとて生物が死ぬわけではないように、群れの中での個の死が群れの滅びを示すものではないという気付きなので、一層深いと思うんだよね。


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