ソリューションビジネスが浸透している途中の世界

仕事がない。20代は忙しかったが、一番忙しい時にふと読んだコピーライターの記事で「ボクは20代にメチャメチャ忙しかった、なんて人より20代なんて何も仕事がなかったという人のほうが信用できる」というくだりがあって、何かとても違和感を感じていた。こんなに忙しいのは誰のためだろう、俺は騙しているつもりはないが世の中にはそんなに暇な人がいるものなのかと思っていたものだ。
しかし、30代になってそれは自分に降り掛かってきた。ソフトウェア開発の競争がパソコンからスマートフォンに移り、その気になればそちらにスキルチェンジして忙しさの中に身を置くことも考えたが、疲れ果てていて勉強など出来ず、気がついたら仕事がなく退屈な部署で毎日出勤してパソコンの前でダラダラしてタバコを吸ってコーヒーを飲むか、あるいはゲーム業界などに行ってみると無茶苦茶な納期を押し付けられ若い人と一緒に残業の過労地獄に行列を作って行くか。何も好きでどこにもある同じようなスマホゲームのシェアを奪うために死ぬ気で働く気には成れないなと思って引いたものだ。
そんな時に気になったのは実家の近所のおもちゃ屋のおばちゃんの息子だ。おばちゃんはおばあちゃんになって、息子はオッサンでおもちゃ屋クリーニング屋になっているが、息子は店の奥でファミコンを遊んで麦茶を飲んでダラダラしていたのがいつのまにか3DSでモンハンをしており、たまに隣町からバイクでおっさんが来て繋いで遊んでいる。あのゲーム会社での暴力的な忙しさと比べたらこの退屈はなんなんだと。俺はついカッとなって言ってしまった。
「お前ら暇そうで良いなぁ」
おばちゃんは返す。「あんたら最近儲かってるらしいやんか。そんな忙しいの羨ましいわ。仕事ぎょうさんあって。私らすることなんて何もない」俺はおばちゃんがたこ焼き屋の副業を暑いからという理由でやめたのを知っているから「それならおばちゃんたこ焼き半額にしてみいや!そしたら2個こうたるわ!おんなじ値段で倍つくんねんから忙しなって仕事ぎょうさんできるで!」「そんなんいらんわい!忙しいのが良いんちゃう!儲かるのんがええんや!」「どないしたらそんなに暇できるほど儲かんのかこっちが教えてほしいくらいや!」「あんた、そんなに忙しいんか・・・」
それから俺は会社の仕事を3分の1くらいにしてもらって、親父の自営業を手伝うでもなく眺めながら、スーパーの弁当を食ってお茶はコンビニでなくディスカウントストアで2リットルを買い、たこ焼き屋の息子のごとく毎日3DSで遊んでみた。
「お前、そんなこと始めたのか」「仕事ないんやな」「俺らしたくてやっとんのちゃうねん。仕事がないからや」「仕事がないのにどうやって毎日の暮らしがあるのか不思議でしょうがないわ」「あのなあ」
俺もお陰で3DSやプレステのゲームをこれでもかと言うほどじっくり遊ぶことが出来た。テレビもだいぶ見た。この生活を維持するためだけの仕事はどうにか見つけないといけないなと思っている。雇われる以上は拘束を受けるわけだから、自分で何かの仕事を作っていけないものかと考えている。
世の中が働きづめならコンピュータはソリューションで知的労働を補填する。しかし世の中が退屈になったら。その時にようやくゲームなどの娯楽ソフトの価値が見直されるだろう。忙しいにつけ暇につけ何かの仕事はあるだろう。
まあ、敢えて言えば充分遊んだと思っていても、世の中もっと暇でもっと遊んでるやつが居るんだなってネットしてると思っちゃう。もっと技術や財を使ってテクニカルに遊んでいるのかも知れないが、それは収益性を無視した投資なんだろうな。たこ焼きを意味もなく半額にするかのような。

高校化学で習う分子量モルとアボガドロ定数ってウソじゃね?

高校の頃に古文と化学が苦手でプログラマーという進路に進んだから必要なかったけど、プログラマーとして売れてくるとお客さんが増えてお医者さんに電子カルテ頼まれたり製薬会社の販売管理とか関連産業の勉強に中学理科の漫画本くらいから高校の生物と化学を復習したら案外簡単だった。
だけど、今日になってなぜ高校の頃に化学が苦手だったか思い出した。よく塾の受験テクで難しい問題に悩まず解ける問題をボーダーまで解けって言うじゃない。だけど、そうして大人になってから受験の忙しさの中で無視してきた難問こそが人生の問題というか悩みのタネだったりする気がするんだよな。俺の場合は物体を構成する分子の数ってどうやって求めたんだろうって高校くらいから悩んで、それでコンピュータの専門学校に進んだものだから、もしかして理系の大学に行ったら分子の数え方が分かるすごい機械とかあるんだろうかって想像してた。SFチックな近未来小説を読んで、俺は中小企業も大企業も外資系も経験したけど、大学ってもっとすごいことやってんのかなって、大学に進んだ同級生とかがハッタリかましたりするから思考の袋小路に入ってたんだよな。
てか、大学行ったやつって高校の時から分子量の数え方なんて考えずに化学式覚えて試験に通ってそんで薬学部とか医学部とかが何やってるって少しずつ割り出していったら、俺は専門卒で高校は物理専攻だったけどそれ以上に理学的に進んだことをやっているわけではないと思うようになったんだよね。分子量ってどうやって求めるのよ。電子顕微鏡でのぞいて数えようにも見えないんだぜ?
それで考えて辿り着いた答えは物質ごとの分子量の比だけは実験を繰り返せば少しずつ分かってくるから、相対的にどれくらいかだけが分かって、しかし論文にする時に根拠を示すために炭素が12でアボガドロ数という定数を作って掛けて数量にしたんだ。
つまり正しいのは分子間の分子量の比率だけで絶対値はまだ求められない。それが試験でモルを使って分子量を計算させられるから分からないので、分からないのは正しいんだけどハッタリとして6掛ける10の23乗とか、そんくらい途方もない数字を使ってるんだろ。
そんで、ウソがウソであるとしても試験のためには覚えないといけないし、比率が正しいのであれば基準値としての炭素の値を覚えることも有用で、学校で習うことにひとつでも納得の行かない所があればそこを足がかりに皆殺しに嘘だというのでなく、自分で納得の行く部分はちゃんと覚えて何かに活かそうという風に建設的に考えたら、高校でも結構に役に立つことは学べたんだなと思うんよね。
ただ、俺は普通科だからコンピュータの専門学校なんて行かなくても工業高校を出ていればコンピュータくらい学べる。だから普通科としてのメリットを活かすためには文系科目とか生物とかも幅広く復習して、製造業よりもっと上の役職を目指さないとだよ。
そんで、どうして分子量計算に行き着いたかと言うと、仏教の因果のたとえ話で大気と海水で地球はつながっていると考えた時にブログで情報を発信することが海水にレモンを1滴絞るようなものと例えたんだけど、海水が14京リットルでレモン1滴って分子の数どんくらいって疑問に思ったからなんだよな。1滴じゃ全部溶けても分子の数で海水全部に浸透するに足りないんじゃって思ったの。だけど14京リットルにレモン1滴でもアボガドロ数が本当なら海全部にリットルあたり分子何個かは足りる計算になる。
ちょっと信じられない数字なんだよね。まあ、海水の14京リットルの方はアボガドロ数と違って測ったこと無いのに信じるのかよ!というツッコミは。
この挑戦、受けてくれる人を募集してます。ネット検索くらいでは解決にならないので。

今日の怒首領蜂(ハイスコア226,685,070点)

今日は2面の中ボスで被弾して電源を切った。弟の「もうやめろよ」という頼りない声が聞こえた。
昼から気を取り直してサターンモードに取り組み、自己ベスト更新の2億点超え。出てもうた。
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オウム真理教がなぜ危険かと言うと、組織に敵対するものについて殺害計画を立てたり武器や毒ガス作ったりと危ないことをやったからであって、どんなにイカれた宗教でも犯罪に手を染めない限りは信仰の自由があるんだよな。だけど犯罪を定義する法律とその根幹である法倫理はどこを基準にしているかって考えると、あんまり仏教やキリスト教とは逸脱した思想だと教えに基づいて行動しても犯罪になるケースがある。親鸞なんかは悪人のが悟りが早いとか言ったものだから、仏教でも住職の息子は将来住職になる前に悪いことや遊びをやり尽くしておいたほうが良いみたいな寺だってあるわけで。そこらへん警察も不可侵の聖域みたいなものはあって、オウム真理教はその極端な利用だよな。
神や仏はあるいはウソかもしれんけど、なぜそれが世の中で信じられていて破壊しようとする人が少ないかというと、その教えを守っている人がいわゆる善良な市民になるのであれば害がないどころか有益だからなんだよな。秩序のためのウソを破壊すると待っているのは混沌。真の自由が殺し合いならば喜んで自ら鎖に縛られようとする人がいる。それはそうすることで相手も縛られることを望むから。誰もが自ら縛られることを望む世の中で縛られることを拒むものが境界線を超えたら発動する暴力が警察だから、境界線を超えない悪意などについては取り除けないわけで、そこで何を説くかと言うと神や仏なんだろうな。
では何故そこまでして共存が必要なのかと言うと考え方の根本に繁栄が良いことだという思想があるからだろう。世界が俺と彼女の二人っきりになったら良いのに、とか考えたこと無い?それから出発して、結婚して子供出来たら無事で居てほしいとか、孫も欲しいとか、それを全部自分の子たちだけに与えようとするのか、いまある世の中の形をそこまで変えずに実現する方法を説いていくと秩序なんだよな。
ゲーセンでストリートファイターしたりトレカで遊んだりするときに何度か「お前勝ち過ぎなんやって!」と怒られて、そん時は分からなかったことが今でも分からない部分もあるけど、怒首領蜂やってて6億の動画を見た時は辛い気持ちになった。そこまでやらなきゃ1番には成れないって思うと気が遠くなって。ネットなんてなけりゃゲーセンでイチバンは取れる。そしてマイナな世界ならネットでイチバンも取れる。だけど、イチバンがイチバンであるにはたったひとりで奇であるだけでなく負け役が居て優劣が付いてやっと勝っている方が勝っていると分かるものだから、階級がガンとあってあれが偉くてこれが低い、みたいのよりスポーツでも何でも勝ったり負けたり勝ちそうで負けたり負けそうで勝ったりと見世物としての見せ方の常識みたいなものを秩序のように説こうとしたんだろ。
犯罪になるわけじゃないならどんだけ勝っても良いって思ってる。そして、そうだから惹かれる人もいる。そこに秩序を持ち込まれると窮屈だって感じるから、無法地帯としてのゲーセンに意味があって勝つのも負けるのも本人が好きなだけやれば良いってルール。そのルールで勝ちすぎることはギャンブル依存症みたいに小銭無くなって帰りの電車賃が無くなって店の中で借金した経験もあるわけだから、勝ちすぎるのは負けが込むのと表裏一体で、だからハマるんだ。そこに勝ち過ぎを咎めるやつが居るなら負けを救うやつは居るのかと。面倒見きれないくらい負けてるやつがたくさんいるゲーセンで勝ちすぎを咎めるのって秩序じゃなく店の都合だろ。
まあ、勝ちすぎるやつが居たら負けているやつの居心地が悪いのは分かる。だからどうってことではない。問題は勝ち過ぎでなく勝ちに憧れて丸裸になることのまずだから、店が生かさず殺さず1日1万点ずつハイスコアを抜き返すようなやり口で100円取り続けてんなら、そうじゃなくて6億も出されたらあんなの無理だ俺には出来ねぇって投げたほうが100円取られないで俺としても儲かるんだ。
ところで俺が怒首領蜂をしていることとオウムは関係あるのだろうか。仏教では世界の因果は全てが結びついているとでも言うか、物理学と地理学を併せて考えると大気や海水で溶媒によって地球はつながっているが、長崎に隠れキリシタンが居て奈良では仏教信仰が根強いことなど考えると、俺が奈良で怒首領蜂を遊んでいるのはレアケースでこれがどこから伝来したか考えるとゲーメストや初期のインターネットの影響であることは間違いない。オウムの話を冒頭に持ってきたのはテレビの影響だ。そうすると、個人の情報の取捨選択というよりはサークル的にテレビゲームの中でもシューティング、シューティングなら誰もがやるべきは怒首領蜂という変な宗教みたいなものの影響を受けていることには疑いがない。
つまりここで信仰するか脱会するかの自由を俺は今獲得したのかも知れない。俺は暇人ですることがなく迷いがあるから何も考えずに怒首領蜂のハイスコアに打ち込むことで現実逃避は出来るのだが、それをすることで社会との関係性が希薄になることは自覚している。だから布教して他に人にも怒首領蜂をしてもらうことで怒首領蜂を親交の緒たらしめんとしているわけで、布教しないことにはどうしても世界につながるネットを利用していてもごく一部の情報網にしか干渉できない。
つまり大気や海が気体や液体であっても高気圧に低気圧に雲や海流という抗えない動きがあるように、30億以上の人間が送受信を繰り返すネットの世界で怒首領蜂の情報を発信することは大気に鼻息を吹きかけたり海水にレモンを1滴絞るようなもので、ビーカーの中の水ならレモンを一滴垂らしてかき混ぜるとレモン水になるけれど、マクロ的には流れに影響は与えていない。それともビリヤードのように俺も世界の一員としてどこかとつながっているのだろうか。怒首領蜂をしていても。


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