「手合わせした人しか分からない」は研究としては不十分

近頃俺は黙っていることが多い。元はというと口から生まれてきたようなおしゃべりさんだったが、プログラマー時代に「口を動かず手を動かせ」という職人気質の世界で性格が少し変わったようだ。また、口喧嘩というのは本を1冊書いて何かを述べるのと違い、その場で「こう言われたらそう返す」という定型文を早口で応酬できる方が勝つとでもいうか、本を読んでいると辞書を引けるがどちらかの分からない言葉を使うと話の腰が折れるし、また本なら読み返して理解できることでも話し言葉が耳から入っていっても一時記憶で処理できる量というのは限られている。男には見せるほうがよく、女には聞かせるほうが良い、みたいのはあるかもだが。

まあそれでも、黙っているよりは言葉にしたほうが良いということはある。口喧嘩をして言い負けたとしても、それが何かの損得をその場で決定するものなら勝ったほうが良いが、ただ気分の良し悪しだけを決めるものであったのなら、そのやりとりを済ませて後から考えて物がよく分かるということもあるからだ。そういう意味で議論は発展を生む。

口が先に出る俺だが、こと対戦ゲームに関してだけは「勝って分からせる」ということを続けてきたから、その場とかグループにおいては発言力を持っていた。それはおかしなことも言ってきたとは思うが、勝って証明するというか目に物見せるのが早い世界ではある。それがあらたまったのはバーチャファイター4のICカードによる勝敗記録だった。勝つまでコンティニューするというのと、勝ち負けをちゃんと数えるというのは全然違うことだ。

地元郡山にはバーチャファイター2の頃からプレイする人はいなかった。ストIIと餓狼は人気だったが、ガードがボタンでリングアウトがあって決着の速いバーチャファイターはカネがもったいないと思われていたからだ。

話を口喧嘩に戻すと、俺は昔は口をよく使ったが、恐らく言っていることは無茶苦茶だった。「中足を起き上がりに重ねると有利になる」というような言葉はゲーメストで写真付きで説明されて初めて意味を持つ言葉で、本から写真を取り除いて言葉だけにしてしまうと同じ本を写真付きで見たことがある人以外には言葉として全く通じない。これはアニオタが台詞を真似してもアニオタ同士でしか通じないとか、マンガを読んで話をしても同じマンガを読んだことのある人にしか伝わらないのと全く同じことだろう。

俺はゲーム仲間から言葉が多少おかしくても「ミヤザワとやったら分かるって」という風に守られていたのだ。それが今、俺の主戦場はネットでの言論と動画の見せあいに変わっている。この世界では同じくゲームを題材にしていても、対戦して強いなんてのは全く意味を持たない。

それでも、口喧嘩をしてあとから負けたほうがおかしなことに気づいて訂正することが言論の発展につながるなら、言葉にしていくことには一定の意味はあると思う。ただ、それはあくまで動画撮影とかゲームプレイとか、一緒にゲームをする意志のある人同士での話かもしれない。ゲームと関係なく、俺の言葉だけに噛み付く人というのもいて、言葉だけを正してくるのだが、そこで喧嘩になったとして、ゲームをしてくれる人かどうかの見極めを誤ると時間と労力の無駄になる。聞き入れると、俺の文章や発言がもっともらしくなるとしても、それがゲームに関係のないところに言論として響くだけでは俺の意図とはズレる。

意図とズレてはいるが、ゲームをしない人でも充分に文章で分かる説明ができるというのはプレイヤーとしてでなくスポークスマンとしては必要になる。そして数式化したり論文化したりして研究が進めば元々ゲーマーでない研究者の知恵が借りられるのではないかとも愚考してきた。自分より学者さんのほうが賢いから知恵を借りられると思ったのは、振り返るとただただ愚行であった。だが、学者さんを言葉で負かそうという話ではない。手合わせしなくても、言論にはそれ自体にルールが有り、それを知って学べばもうひとつ新しいゲームの盤が出来る。

そこに格闘ゲームやトレカで「手合わせしないと分からない」ではつまらない。正しく言葉にできれば、それを客観的に見て他の人の意見を取り入れ、さらに新しいゲームの戦略に発展するという未来を俺は夢見ている。


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