俺にとってグラディウスやドラゴンクエストなどのファミコンソフトの思い出はゲーム画面の中だけでなく、自営業の店の裏手奥座敷で家族で見る大きなカラーテレビを買った時に倉庫に仕舞われていた小さなカラーテレビを床の間に出してきて、居間に2台のテレビで祖父母や両親がテレビを見ながら姉と遊んだ思い出全部とつながったものなんだ。
グラディウスが楽しかったと言って、同じソフトを持ってみて、全く別の空間で例えば暗い部屋でひとり遊んでどんな体験になるかというと、もちろん大ヒット作なのでそれでも一定の楽しみはあるだろう。ただ、発売当時の昭和後期の風景とともに思い出されるグラディウスが40代50代にとってある種の郷愁を帯びていることは間違いない。
ゲームはスペックが上がって映像が綺麗になり、内容も充実しているのに、どうしてか子供のときほど楽しめないことについて多くの人が色々な角度から議論してきた。それがどうして答えにたどり着かないかと言うと、多くの評論家が嘘つきの大人になってしまって自分の本心をしまいこんで考えを巡らすからだと俺は考える。
そのゲームは、遊んでいるテレビやパソコンを何で囲っているだろうか。実は俺もグラディウスが面白いと思って子供ながらにゲーム雑誌を読み、「シューティングゲーム」という言葉を覚えて「グラディウスは面白い。そのグラディウスはシューティングゲームである。つまり面白いのはシューティングゲームである」と子供だから論理性の弱いまま、信じてしまったことがあるんだ。
そうして、親父にねだってジョーシン電機で誕生日にアーガスというファミコンソフトを買ってもらった。これはシューティングゲームだ。
だが、アーガスはそこまで面白いと俺は思えずに、少し遊んでカセットを挿し直してまたグラディウスを遊んだ。「せっかく買ってあげたのに・・・」この出来事のほうが親父としては年を食うまでよく覚えていたようだ。
多くの人が大人になって、自分でお金を稼ぎ、中にはその中から小遣いを少し出して自分へのご褒美にゲームソフトをポンと買ってあげる人もいるだろう。そして、その多くはせっかく買ってあげたのに少し遊んで「最近のゲームはつまらないな」と放ってしまう。
もちろん、そうでなく素直にちゃんと面白いと喜んで楽しめる人もいるだろう。俺の場合はそうではなくて、大人になるまでの間に相当に感性が痩せていた。働けど働けどその暮らし楽にはならず、じっと手を見る。そんな思いで毎日暮らしているのにゲームを楽しめるか。
ゲームの面白さが身にしみて分かったのは、フリーランサーの個人事業主になってからである。なんとなく、イメージとしてその頃はお金を稼ぐようになって幸福になったと周りから思われていたのだが、どちらかと言うとお金遣いが荒くなって、高級外食にパチンコに盛り場にとどんどんお金を落として、仕事も無くして、何とか少なくなった手持ちの現金で日々暮らさねばならなくなってから、値段のつくゲームソフトは質に入れるかのように中古売却して、買ってもらえなかったゲームを売って無くしたゲームの代わりに遊びこんでから楽しくなったのだ。
今は生活は何とか週に数回の外食を楽しめるくらいに落ち着いてきたが、そうすると外食をちょっと辛抱すれば新しいゲームソフトの購入を検討することも出来る。出来るけど、多分外食をしながら持っているゲームをもっと遊びこむほうが楽しいんじゃないかと思ってる。