ストリートファイターIIの攻略について弾ジャンケン理論、足払い戦理論両面について、三すくみでジャンケンをしていると言うよりは深読みが一方通行でなく、読みすぎると浅い読みの手に返されてしまうことは有り得るが、それは最初からジャンケンのように三すくみのルールの規定の中で争っているわけではないので、深読みしすぎて浅い手に負けるということは相手の読み深さを読み誤っているということであって運否天賦に運負けしたのとは違う。
こう認めると、相手の読み深さを何らかの手段ではかれないかと建設的になれる。
たとえばザンギエフのスクリューハメでもストIIXの1996年頃には起き上がりにローキックを重ねて下がってガードするパターンが流行した。ローキックからスクリューに行くとリバーサル昇竜かガードの半丁博打になるが、ローキックを重ねると起き上がり昇竜にはローキックの持続が終わってガードが間に合い、ローキックをガードさせてから半歩下がるとリュウは昇竜拳も足払いも空振る間合いになるので、立ち会いがザンギ有利なら半丁博打の五分になるスクリューハメを仕掛けるよりもローキックから立ち会いに戻すほうが有利になる理論があった。
そう考えると、相手から仕掛けられるかも知れないジャンケンを可能な限り避けて、それでも避けきれないほど詰められるならそれはそれで相手が上手く詰めるだけの腕があると認めてよく、そうでない荒いバクチなら何なりと返す方法が無いかと考えることは出来る。
ただ、俺が運だと言い始めた時期には1プレイ100円では店が流行らず1日500円の貸し台制になった時期に、ひたすら乱入してきて荒っぽく仕掛けてくる相手をひたすら丁寧に返すことに心が折れたり、反対に乱入のスタートボタンを押して対戦を申し込む形を取りながらも何もしてこないで木偶を殺させるような嫌がらせ行為を受けて嫌になって辞めてしまったという経緯はある。そういうことに対するメンタルが弱かったと言うことも出来る。
1回100円なりともお金を払ってもらっているから、丁寧に相手しないと失礼に当たるというのは俺と今村氏がヴァンパイアハンターをしていたときのポリシーだった。前日本チャンピオンの平井市にも匹敵する腕の人間がたったの100円で真剣に勝負してくれる、というのが売り物だったのだ。
そして、ヴァンパイアハンターというゲームはストリートファイターIIの堅牢なガードに大きな削りの飛び道具で争うゲームでなく、ガードキャンセルやチェーンコンボという操作の腕が出るテクニックがあり、ダッシュの中段や空中戦の駆け引きで展開が早く、技術面で勝敗に介入できる要素が充分に納得できるほど複雑だった。
俺が格闘ゲームを嫌になったのはそのヴァンパイアハンターを1日500円の貸し台制にして3日目くらいのことだった。
友達とセガサターンで対戦したり、筐体を持っている今村氏の家で対戦していた時もあくまでゲーセンで100円を賭けた試合の「練習」だった。
そして1日500円の貸台制から真面目な練習に疑問を抱き、1プレイ50円の店ではなく1プレイ100円の店を選び、もっと言うなら1ゲーム500円くらい賭けてくれないと真面目にやりたくないとも考えるようになった。その時の仕事はプログラマーで月給が良く、100円で働かされるのが馬鹿らしくもなっていた。
運ゲー論者になってから、勝負に対して荒っぽくなり、ゲーセンでは負けても悔しいと思うよりリベンジするのも結局は運なので運否天賦に100円をまた使うのは勿体無いと思い、店のサクラでわざと負けたら100円もらえるなら何百回でも負けてやれると思うようになった。勝負にプライドを賭けていた10代の頃とは違い、拝金主義的でモノや飯やタバコや酒が買えるお金がゲームで負けるだけで貰えるなら好んでそうするという精神性に落ちぶれた。
それが最近では貯金ができて、適度に暇があり、気力が充実して、また勝負について深く考えたいと思えるようになってきた。いつどこで誰に対して何を賭けるかというような相手本位の属人的な対戦ではなく、ただ誰もいないゲーセンで台に向かえた10代の頃の心が蘇ったようだ。
どうしてあんなに真剣になれたか思い出せたようだ。真剣になっていると自分に言い聞かせることに対する自己陶酔とか自己暗示のようなものだ。それでいて、ムキになって視野狭窄になっている時は自分がそうであると気づいて冷静さをキープできるようにもなった。
ムキになって視野狭窄になるというと聞こえはとても悪いのだが、ゲームをする時に結局は外野からの期待や圧力でしんどい勝負の仕事を押し付けられている、というようなところまで外郭的に考えてしまっては勝負に集中できない。ゲームをする時は今の仕事はゲームであると思考を制限するような集中力もまた必要だろう。
そういう意味では人生をゲームに乗せるほどの意気込みではなくニュースもドラマも見るしブログも書くし酒もタバコもする中で、ゲームをする時はゲームに真剣にという生活のバランスのようなものが今の俺のモチベーションである。
自分がこんなにゲームに真剣なのに相手がそうでないことに怒るみたいな怒りはなくなった。自分が編み出した技なのに相手がゲームを投げ出したせいでキャラをひっくり返して相手のキャラまで自分が研究してやる羽目になる甘えの構造による理不尽も相手がコンピュータだけなら思わない。
高本氏が相手が人間のほうが駆け引きが面白いというのは分からないではないが、シューティングで遊ぶならゲーム機でタダで出来るんだぞと言っていたのが今の俺のコンピュータ戦を主軸とした格闘ゲーム研究のポリシーだ。読み合いをするのでなく、選択肢の裏表の期待値を考えて、意志のないコンピュータ相手にそれが通じる行動ならばそうやってハメる。
下手な内は相手に返されてみないと自分の判断の良し悪しが分からず、教師となる相手に依存しないとゲームが出来なかったが、今では俺は格闘ゲームの全てをプログラマとして作れるほどに精通して、その上で両者のキャラ特性を理解してゲームに臨んでいる。
確かにゲームとして遊ぶ中にデモンクレイドルやクライムレイザーのような半丁博打の駆け引きが発生する技はある。だが、その1点に終止するわけではない。
人事を尽くしたとはまだまだ言えない部分があるし、これから趣味として続けていく中で向上心を保って勝ちも負けも受け入れて楽しむ気があれば、ゲームはそこで俺を待っていてくれる。嫌なら辞めてしまえばよいわけだが、また好き好んで取り組むってことは本当は嫌じゃない何かの魅力から心を隠していたんだ。
ダラダラと書いてしまったが、自分から嫌になって投げ出したことを相手のせいにしてはいけないのだろうな。確かに、あの時の周囲のやり方は俺からすると嫌がらせを受けていたとしか言いようのないものなのだが、そもそも俺が店と付き合う必要性がないのだから被害妄想であるとも言える。だから、家でひとりでならまた遊べるのだ。電気代と自分の命のロウソク。それが最大の掛け値だな。
そう書いてしまうと本当に自分の命のロウソクの使いみち、それで良いのか考え直したい部分もまたあるのだが。蛇足だが、敢えて書いておく。