NHKのメジャーリーグ大谷翔平スペシャルにテンションの高まる日々。
「格闘ゲームは論理的に突き詰めると最期はジャンケンになる」今では言いだした頃とは反対に、当たり前に思われているが、それは例えると無地の紙に出鱈目に打った点から、線がウネウネと動いて中心に寄り、そして中心で全ての線が三つ巴の格好から互いを食うように回り出すというひとつの映像表現になるような気がした。
中心で三つ巴になったからと言って、それが全てではなく多くの点が三つ巴に集約されたその過程こそがゲームだったろう、とも思っていた。
今は、その中心でうねって凝縮された三つ巴の食い合いから線がどんどん逸れて、外に絵を描きだすような感覚でもってゲームに臨んでいる。
いっしょうけんめい投げる
いっしょうけんめい打つ
いっしょうけんめい走る
タイガーショットで飛ばしてタイガーアッパーカットで落とすだけでも、丁寧に続けていると他のことも見えて来る。俺はじっくり考え、パッと行動し、物事が片付いたらまた考える。こういう人間だと自分で思っているが、工場で働いた時に壁に「考動セヨ」と書かれているのを見て「考えるのと動くのは分けた方が良いんじゃないか」とすら思っていた。
人間はルーティンにはまると慣れてくる。慣れた仕事には続けながら考える余裕が出てくる。行き詰まって、考えることに集中した時期はゲームに触っても当たり前のテクニックが手から離れてしまっていた。
勝負にはいろいろの要素があり、自分がそこだと思って取り組んでいる以外のことでも案外と決まっている。取れているゲームもあるのに「俺は本気出す」と宣言したのを言い訳に、他のことをないがしろにして挑んだゲームで負けることで深く傷つき、いつまでもそのことを悔いた。
「集中とは何か」というと、とてもゲームに集中できる状態ではないはずの環境でもゲームのことは頭の片隅に置いた。
大相撲を見ていると、横綱「照の富士」はまあ注目するのだが「逸の城」とか「貴景勝」それに「徳勝龍」も覚えた。「栃の心」や「碧山」などの外国人力士。
そうすると、本当に生物的に体力のピークが来る相撲と違って、ゲームくらい反射神経が多少下がったとしても年食っても余裕で出来る競技だとも思うのよね。ゲームがeスポーツと呼ばれて大盛況というのも波が来てテレビになる一幕から、蓋を開ければゲーセンで5〜6人集まって台を囲んで遊んでいるだけ。その現実にもう一度目を向けて、ゲーセン経験者として誰もしていないゲームだから記録さえ抜けば全国一位になるって低いハードルに、それいいなと後乗りが現れて本当に競技になった程度の話なのよね。
もともと、することがないから始めたこと。お相撲も大学まで他のスポーツをしていて、スポーツでお金を稼ぐために転向する人も昔からいるらしい。
お相撲とか、メジャーとか、テレビで見るとテンション上がるけど、ゲームってそれほどのことではないよね、という引きと、だけど俺たちは負けないくらいにやるんだと意気込んだ過去のベクトル合成したところに趣味としてだけどやる時は真面目にという今がある。
その元気が取り戻せたくらいで、ここ十年の闘病生活の回復の出口が見えた気がする。