議会で戦争が論じられるという矛盾

 まず人は誰しもそれぞれ別のものであるという思想がある。

 それを「人はだれしも70億人にひとりである」と言い換えてはいけない。70億でも80億でも、それは互いに異なる個々人を同じ人間であるという頭数の数という概念に変換して、それで「数」と「同じ人」という概念が合体して人数となり、国家を頭としてお役所で登録した人を数えるとか、人工衛星やヘリコプターで空から数えるとかして昔は50憶とか習ったけど、最近で70億とか80億とか言う数字が出てきているのである。

 数とは何であるかというと、絶対的概念ではなく抽象的概念である。人の話を先に書いたが、リンゴの実をふたつ手に取ってほしい。リンゴというのが西洋的というか青森にもたくさんあるようだが、身近でないならミカンでも良い。ふたつというとあなたは幾つ取るのか知らないが、両手にひとつずつ持ってよく見比べると違いがあるはずだ。

 それでも、その違いを含めてミカンなりリンゴなりと見做して同じものがふたつと数えることを学んできたのかもしれない。

 そう考えると、数というのも絶対概念ではなく抽象概念であるという立場を取りたい。

 近代では数は万国共通の絶対概念のひとつと考えられてきたが絶対とは何であろう。

 数を学校で習ってから後に否定するものが学校の勉強を出すのも何かの矛盾がある気がしないでもないが世界史の本によると「絶対」というものが求められたのは今に始まることではなく、16世紀ごろに西洋で王権神授説から「王様は神様が決めたから正しい」という、日本でも神話の後継者である宮家が正しいというのと同じ理屈で絶対が決められたらしい。それでも王様は不老不死ではなかったらしく、後継者選びと他の王様つまり遠方の国でも同じ理屈で絶対があり、ふたつの絶対を決めるために対立が起こり戦争の火種となったようである。

 それから、王様が言ったことが絶対ではなくなり市民が立ち上がって議会が出来た。

 まあ、そんなことは16世紀ではなく紀元前にギリシアローマでもあったかもだが。

 そうすると、紀元前でも哲学者ソクラテスはどのように語ったかというところから、絶対というものは定まらないものではないかとあらゆるものに疑念を持った態度で接する思考法というのはあるようだ。わざわざ人から学ぶことではなく、人は自発的に「あれ?なんかおかしくないか?」と考え出したら、それが哲学の始まりである。

 絶対というものが無く数は絶対であるというのもおかしな話だと思うのだが、それは数学それ自体にも四則演算を教えて、足すと引くの計算からマイナスが出てきて、プラスとマイナスを共にゼロからの差分で同じと捉える絶対値というものが出てくる。

 それはそれで、絶対というものは無く議会で決めるようになった経緯として、王様同士が絶対を争って揉めて市民が兵隊として戦地に行かされたのがバカバカしいから議会が成立したのに、それを模して日本に議会が出来ているのに議会が戦争を是としてしまうのは絶対王政以前に逆戻りではないかとも思える。

 ただまあ、日本だけが世界ではなく、世界の他の国には王政の国もあるわけで、言葉が通じないところで国境線を超えて侵略とかしてくることはあるので自衛隊とか安保で守りましょうってのはこっちはよくてもあっちはダメって言う個々人の相互理解の問題と何も変わらず、そしてそれが王政によって統一されているなら王様同士の話し合いで決着するのだけど、市民に統制が取られておらず自律的に動いている以上は侵略は相手国の政治的意思決定で起こるのではなく、漁船の領海侵犯のように自然に起こりうる。

 王政ではなく個々人の主義主張を尊重する社会が、新しい戦争のきっかけになっているのだろう。

 すごく関係なさそうで俺がこの思想に至ったのは、もともと学校でガリベンってかガリに痩せたわけではなく太っちょでかけっこが遅く勉強で勝負するボンちゃんだったものが、中学くらいで通信対戦台というゲーム機をふたつつないで勝負した方が相手の100円を負かす社会の暗部ともいえる無法地帯から、ゲームで決めるか文句で決めるかというところが、中途半端で定まらないながらも少なくとも「勝った」「だから正しい」という風に、まず文句を言って、その文句が正しいかどうかをゲームでの勝ち負けで決めるという方針で進めてきたことがある。

 それがこうしてネットに色々書きこむことで、不参加の女方にも噂が広まり、舌戦で戦いたい女の人がゲームの専門用語がいっぱい入ったゲーマーの口論が何もわからず、それで勝った負けたなら分かるのかと思いきや「誰がどのキャラ」とか、誰でもコインを入れたらどのキャラを選んでも良いのか、キャラを決めてから違うゲームの同名キャラにして良いのかとか、ルールなんてものはサッパリ決まっていないことが分かってきたのである。

 ここで決めているのは、ゲームの前の舌戦は攻略法であって「その方法を守れば勝てるのか」ということだと俺は認識している。

 それで、ひとたび俺は鉄拳王となることで、その目的を果たしたと思っているのだが、先日引きずり降ろされて、返り咲きのためにもういちど勉強しなおそうとアマゾンで古本になって売られている鉄拳の攻略本をぽちくりするべきか悩んでいるのだ。

 それでは、ゲームで勝って決める以前に技の名前を覚えてフレームで計って、作戦を立てるというゲームで決める前段階に戻るわけである。

 まあ、王位を譲る気だ出てきたので、もう鉄拳のことは勝手に決めてくれと思うと、攻略本にお金を出したり、せっかく勝ったのに降ろされてから学ぶというのも順序としては反対で、誰かが学んで勝ったわけではなく最初からプログラムされた鉄拳5のゲーム機及びソフトを放っておいたら年食って負けたという話なのである。

 振り返ったら、何だったんだろうなと思うと、俺にもおかしなところはあったかもだが、それを振り返って論理が是正されると、世の中もっとおかしなことだらけなようで、そのおかしさを少しでも是正するために現在進行形で論戦は繰り返される。

 そこで、鉄拳で決めるのか、論戦で決めるのかは王政とまでは言わず代表決めであって「鉄拳を論戦で決める」という選択肢は多分無いんだろうなと思う。

 まあ、それでも攻略本を今から読んで技名やフレームを覚えていくとなると、そこは鉄拳王よりも鉄拳評論家的なポジションしかもう残っていない気はする。

 手前味噌に自伝を添えておくと、文句たれのボンちゃんが文句をやめてゲーム頑張って勝ったから、文武両道とみなされ、一定の界隈から評価されたという話で、それは文句で決めたのではなくゲームで決めて勝ったからアイツの言う事にも理があるという話になっただけの話で、ここで振出しに戻ると「鉄拳を論戦で決める」はやはりなく、論戦で勝った負けた以前に言葉も全部は分かっていないものをゲームで負かしたから王様になったということ。

 だから、ゲームで負けたらここは素直に降りるべきで、ゲーム以外のことに言及するにあたり「ゲームで勝ったから」という看板は添えないで論戦で挑むべきであるとは思っているし、そうすると論戦は市民の代表者である政治家の仕事であって、市民に与えられているのは投票権なので、俺は自分の支持する政党に票を入れる。

 その支持政党が議会で言ってることがおかしいと思ったり、ネットで議員がヤジやスキャンダルでこき下ろされているのを見ると、それでも選挙では勝っているわけで、ネットの言論てのが実はあまり影響力の無いものなのだろうなと考え始めているわけです。

 ただ、国会とか政治的な影響力まで行使するとなるとそこまで問題になっていることなどなにひとつなく、飯食えてゲーム出来るのでゲーム仲間と遊ぶことは出来るし、ゲーム仲間の中に支持政党が違う人がいても無関係にゲームでの勝負を楽しめる。

 ただし、ゲーセンでゲームをするのはカネがいるし、家でゲームをするのにもゲーム機を買うお金と暇な時間はいる。そこにさらにゲームの攻略本の代金を乗せて言葉が分からないからゲームで遊んでいる人を舌戦に巻き込んでも仕方が無いとは思う。

 あるとすると、本読むと勝てるようになるから勉強を進めるという方針を持つこと。そうすると、高校無償化など、政治もゆるやかにその方向に進んでいるとは思う。

 だけど、勉強する学校でゲームしてゲームで勝ってただけで、ちゃんと勉強してゲームはほどほどにってなったら、この俺の今の交友関係はそもそも出来ていないかもしれない。だから、ゲームで論戦てのはやっぱりなく、無心で打ち込めるものとしてのゲームはゲームで決着てのは動かしてはならないポイントです。

 ただ、ゲームで何を決めるのかというと、それはゲームでの勝敗にとどめるべきで、王権とかをゲームで決めちゃいかん気はするよな。鉄拳王はあくまで鉄拳王


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