鉄拳5デビルジン拳聖に昇格!

 鉄拳5が楽しくなってまいりました。吉光平八ブライアンあたりが持ちキャラでしたが、どうせやるなら最強キャラとの呼び声の高いデビルジンを自分で使いこなして本当に最強か確かめたいと思いまして、たまに遊んでいるんですけど、今日は拳聖まで昇格出来ました。

 じゃん!

 ゲームがゲームとして楽しくなるためにはルールの理解が必要で、格闘ゲームの場合は自分の技と相手の技を知り尽くしてからやらないと、ボコボコに殴ろうとボタンを連打して良く分からない間に勝ったとか負けた、まあ初心者でもリーチと速さとダメージが回数を重ねるとだんだん分かって来て、大ダメージを狙ったりするようになってからちょっとずつ楽しくなるのかなと。

 いや、連打のボコボコでも十分面白いように作られているゲームだと思うんですよね、鉄拳とかバーチャって。それがバーチャ4でカードシステムが搭載されて、誰でも自分の勝率とか、興味があればギャンブル攻撃率にガード率とか、様々なパラメータを見比べて自分で考えて強くなれるように出来ていたんですよね。

 この辺はコナミの麻雀格闘俱楽部とかも同じで、自分の打牌をデータを元に研鑽していくわけですが、それで強くなってから他の麻雀ゲームを打つと勝てて面白いという経験を通して、バーチャで培った3D格闘ゲームのノウハウが果たして鉄拳で通じるかというと、まあフレームバーチャするためにフレ本欲しいなと思うけど、そこまで突っ込んだ鉄拳の本ってなかなか無いみたいだし(固有技のフレ本はあるらしいけど未入手)調べも含めて暇つぶしだから、まあ少しづつ対戦を重ねて経験を積もうかなと。

 どうして巷の人はフレ本すら読まずにダイヤグラムも無いのにデビルジン最強と安易に決めるのだろうと思っていて、それ使ってる奴が上手いだけって可能性とか考えないのかなって思ったんだけど、まあコマンドリスト見たら十連コンボが7種類あるんですよねデビルジン。これ順番に出すだけで初見の人には全部ガード不能連携だろと思うとそりゃ初心者キラーに成れることは間違いない。

 格闘ゲーマーは俺の属性のひとつだけど、どのゲームにもアツくなって火が付いた瞬間みたいなものがあって、それが自分である程度極めたと思ってからの強いヤツとの対戦だったと思うのよね。それに関して言うと鉄拳ってまだ全然やり込み足りないという思いがあって、相手のキャラの技知らんしと思うとシラケちゃう。

 だからこのキャラ数の多い鉄拳5とかそれ以降をアツくなるためにはそれ相応に自分が鉄拳強いと思えるところまでやり込んでから強い相手とやらないと、火がつかない。

 火が付いていないのにやり込めるかと言うと、なんか格闘ゲーマーの義務として網羅していないビッグタイトルがあるのはナーって感覚だからやり込みもそこまで。

 勝負の軸がどの辺にあるかの見極めから、それでもちびちびとやっています。

 最初に書いたように楽しくなっては来てます。火が付いたとかじゃなく普通の趣味として。コマンド覚えてコンピュータと殴り合って。ただ、俺から見てちょっと触っただけの人が台を囲んで鉄拳談義していたら、やり込みもしていないのに何の話をしているんだろうと反対に不思議になってしまいます。やり込み談義なら分かる。けど鉄拳コミュって触っただけで何か談義してるのよ。あの空気の中でなら、黙ってデビルジンで勝ってる人の方が対戦相手としては面白そう。でも同キャラはどうかなーとも思う。

 ホントに腕で負けたかキャラ差で負けたかとかもまだサッパリ分からないのよ。

 

追記:

 鉄拳にしこりが残るのはゲームでの勝敗如何ではなく、分からなくてやりたくないけど人前での勝負を飲んでしまい、恥をかかされたという状況の中で「俺はこんなゲームは相手にしていないんだ」という言い訳をしてその場を去ったことへの悔いだろう。

 ゲームで勝負する、そのゲームは時にビートマニアというゲームと呼べるものか当時は怪しかったものに変わり、格闘ゲームで良く似ていてもバーチャと鉄拳ではルールは違う。それを野球選手が正月にやる的当てゲームみたいに華のある舞台で談笑できるような負けならばいいのだが、俺がストリートファイターバーチャファイターで勝てることを知らない人がギャラリーの中で鉄拳をさせられたという策の中にはまった負けだ。

 それに対して人間関係や舞台設定などの見せ方ではなく「全ゲーム強くなることで克服しよう」という風に構えるからしんどいのだろうなと自分なりに分かった。

 だから鉄拳も5で練習しようと買ってから既に世には8なる物が出ているらしいが、個人的に練習しようと買ったのにそんなにやり込めていない事や家鉄王をこのブログで紹介する情けないタイプの勝ち方になっていることが煩わしく、人前でギャラリーがいっぱいいるところで華々しく買った経験が忘れられず病むってそれキヨハラさんそのもの。

 この悔しがるポイントを間違えて努力しているから、なかなか思い通りに行かない。

 ただし、その感覚は俺固有のものではなく多くの格闘ゲーマーが貯めているフラストレーションがそれそのもので、家でゲームしてゲーセン通って、しかし人の集まる大会の場で見せ場が無かったというような価値観を酒を酌み交わして共有しているのが何とも言えない負け犬グループの絆の元で情けない話なのである。

 この輪は抜けなくてはならない、しかしゲームを続けるのなら、多くの相手は「そういう人たち」になるのだろうと思う。その点において、鉄拳はまだ俺はゲーム固有のコミュに入れておらず、どんな人がやっているのか、どんなやり込みがあるのか全然知らないのだ。

 まず、知らない勝負を飲んでしまった負けを認めて、今日はデビルジンの十連コンボの7つのうちひとつ目LKから始まるルートを覚えた。打率はまだ低い。

 自分要因で克服できることはひとつづつ潰していき、他人軸の事をどうこう考えるのは自分軸で出来る範囲で見せるか聞かせるか、触るような行為は反則だとどこか思っている。話すべきだろうか。もう既に相手目線で縁は切れているが、俺からすると誘われて一緒にゲームをする約束自体が人前で負かす策に嵌めるためで、奴らは俺といっしょに遊ぼうなどとは考えていなかったのかもしれないと考えを改める。

 つまり、そんな簡単なウソも見抜けないほど人間を信用しすぎて不用心だったのだ。

 かといって、その相手に仕返しをしてやるとして恥をかかそうなどとはそこまでは考えない。ゲームで勝負して負かして、それでそんな奴らが屈服するだろうかと考えると、そもそも誘ったやつと対戦相手になったやつが別人で仲間でグルになっているか、何らかの策で向かいの椅子に座らされただけなのかとかの見極めも付いていない。

 完全に対戦している両者は利用されて、観客だけが満足しているその満足が「俺の負け」だから、俺が克服してリベンジを挑むと「相手しない」になるだけだ。

 だけど、その「相手にしない」の態度は平易に出来るのかと思うと、俺が鉄拳にしこりを残して練習するように、相手に傷を残すくらいの効果はあるかもしれない。あんまりそういう風になると犯罪心理学っぽくて、俺はもうゲームはひとりの趣味にとどめて、ギターや写真などの新しい趣味で自分が健全だと思う人間関係を新たに築けたらと思うのは能天気に過ぎるだろうか。ことギターでは見栄になっているか恥をかいているか、その判断も視聴者に委ねることとなるような状態ではある。

 ストレスの原因がゲームにあるようで、それを取り巻く人間関係が正体なら、人間関係って親しい間柄でも色々あるわけで、距離を取るというのは本当に日本式の普通のやり方だとは思う。光があれば影が差し、勝ちの裏には負けがある。成長や克服はどこかで主従の転換になるわけで、優位な立場だから成り立っている利害が反転したらそこが縁の切れ目となるような関係だったと考える他ないだろう。それが勝負事。

 ラクをするという意味では、圧倒的に舞台役者や勝負師よりも観客だろうと思うのだが、近年はSNSの発達で舞台の側の人間がやたらキラキラして観客の方が完全にその立場を数値化されて悔やむという現象が起こっている。

 もちろん、有名な人と友達になって会話したいという気持ちが分からないわけではないが、羨ましいのは自分が見る立場だからで、当事者となると考えもまた変わる。

 近年まではSNSに「つながる未来」があったと思うが、現在では「つながった結果としてのトラブルに対する残念」も目立つ。

 まあ、こういう恨み言を読みたくないけど鉄拳は見たいという人がいれば、というかいることを期待しているから練習の励みになるのであろう。それが格闘ゲーム


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