積読消化しながら肯定的に読書をする

 最近なんか記憶力が上がってきた気がする。小学校の社会科から暗記科目を捨てて、国算理の奈良学園に進み理系進学希望からフリーターして専門学校ゲーム系IT系と来たのだが、ITでもデータを扱う上で数字なら分かるのだが、画像を形として考えていて白黒と色付きの識別が甘く、赤と黒なら分かるが色彩感覚に微妙なところがあった。

 あと国公立でセンターを受けたが倫理政経だったので常識的な日本史とかがすっ飛ばされていて、去年の末くらいから日本史の復習というか俺の高校の時より明治大正など近代が増えていて、そこらへん目新しいと思って勉強しなおした。

 簡単に言って暗記の得意不得意という問題で「苦手だから」と諦めていたことを記憶に個人差はそんなになく反復の回数であるという論点に立って見て、実際ゲームの技やモンスターの名前など興味の対象だったものはよく覚えており、しかし趣味でもギターのTAB譜など見ながら弾いていて、全然覚えらんなかった。苦手だとまた思った。

 それが2月に入ったあたりからGLAYのBELOVEDのイントロとぼっちざろっくの青春コンプレックスのイントロを覚えたというか耳で聴いて音では覚えていて、それを譜面を見ながらと反復して、暗譜能力が全般的に上がってきた感覚がある。

 そうすると社会科も小学校から捨てていたわけで、中学レベルの世界地図と日本史の復習でぼんやりとしていた地図が少しずつくっきりしてきて、空っぽから何かは入っているという状態になっていると思う。

 どしっと頭に本を載せたら頭に入ったら良いのになぁ、の図。

 それでこないだは病院で病気の本を読んでいたのだけど、物理のように視覚触覚でもってほぼ絶対的な事ではなく、おぼろげなものを捕まえようとするとき読書しながら「いやいやそれはないでしょ」とはねつけながら目を通すところが俺にはどこかそういう風なのだが「そう考えてみるのもアリかもね」という気持ちで読むと入って来る。

 だから苦手だった化学とか、取ろうと思って一度諦めた応用情報とかも、顕微鏡でも見えない分子というものが「ある」という見地に立っての体系なわけだし、応用情報のスケジュールとかでもファンクションポイント法など「そんなの求められるわけないでしょ、管理者都合で従業員に期限切ってるだけでしょ」とはねのけてしまっていたのだが、いざ自分が管理職になるとすると経営者なりにスケジュールを説明せねばならず、根拠なしに考えるよりは「ファンクションポイント法で計算すると2ヶ月かかります」とか出した方が良いに決まっていて、それではねつけるではなくまずやってみて、もっといい方法が無いかもっと正しく出ないかとならないで「うーん、ああでもない、こうでもない」とやるのではなく、もう「応用ロボ」みたいになっちまったら良いんじゃないかとか思って見た。いたのよそういう人、以前の職場に。

 特に記憶に着目したのはダラダラとではあるが長いことやってきた将棋ソフトの研究で、研究手法とか思考法に差はあれ究極の指し手が見つかればその一手をメモリするだけで外部からは区別不可になるということ。物理学から見ても同じ物性を持っていたら同じモノと見做すわけで、大学から合否選別される立場の受験生として「受験では測れないモノを分かれ」とするではなく「受験で測られるなら答えを合わせればよい」という通過者の論理にひとたび合意してみたのだ。

 俺の今までは何だったのだろう、とも思えたが、そう考えると多くの人の考え方に共感合意することが出来る。ほとんどの合格者は丸暗記なのだろうなと思うのだ。

 天才なのか凡才なのかはさておき、国公立に入るやつはみな一度は丸暗記を通過儀礼としてやっている。だからその暗記対象たる義務教育や高校過程に立脚した思考はそれが全てではないとして軸として持っているのだ。

 そのへんは趣味の格闘ゲームでも、ふわふわとした論理のブロッキングより、確定的に同じことが出来るオリコンカプエス2で「ときど」が選んだことにも通じる。

 それがギターの稽古も新曲の作詞作曲ではなくまずGLAYのBELOVEDを弾けるようにリズムギター以外のイントロやソロもそっくりなぞってみようと思ってから暗記力が伸びてきていると思う。

 これは損得は分からないが交換だと思っている。俺は何かを生み出すクリエイターたろうとしてきたが、生み出したものが本当に新しいかは常に検証され二番煎じであるとかどこかから盗用したってことも疑われてきた。だが東大が賢いとして学ぶという事は語源からして「真似ぶ」ということである。ここでまずは我慢して真似てみるということを考えると、自分の所作は最初は親の真似だし、変態的な行動が伝記で読んだ偉人の変人性の読書体験からの真似であるのかもしれない。

 気づいたら天才は左利きというが、ギターの稽古や日常生活で俺は両利きと言って差し障りない器用度になっている。もうこの時点で俺の才は天賦の才ではなく後天的に努力して得た秀才型なのが確定的であり、そして秀才型のトップを東京大学に置くとすると(まあそれが間違っていたとしても)大学の真似野郎に後れを取って後を付けていることになる。

 その上で、彼らがどう考えているのかとすり合わせしたいと思って本稿を書いている。「覚える以外にどう考えて良いか分からない」とか「俺たちと正反対だ」みたいなことは優等生からよく言われてきた。それがどういう事か。先にも書いたが、損得は分からないが交換だと思っている。何が得られるかは正直まだ分からない。もしこれで丸暗記以外の新しい知見が得られなかったら、そういうことでFAだと思う。

 哲学の深みも、一見深いがプログラムの永久ループのように堂々巡りになっているだけで、論理的には簡単な入口と出口があるのではないかと俺は思っている。

 ただし暗記だとして勉強量としてどれだけ頑張りや粘り強さを見せられるかと言うと、へなって既に負け犬根性で書いているところはある。正直張り合うのはしんどい。


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