ギターの稽古をしているとエレキの固い弦で良い音を出すには指板のフレット寄りのところを薬指とか小指でもキュッと押さえる筋力がいる。握力には響かないくらいの薬指や小指の筋力。これが最近では右手より左手の方が鍛えられていて、マクドナルドのビッグマックを手で持ってかぶりつく時に、左手の薬指でバンズを強く持って穴をあけてしまってソースがぷちゅッと出た。
そういうのは、ラジカセの端子を差す時も器具を使わず手でやっていたのが、昔は力が弱くそれに合わせた器用さで出来ていたものが、器用になった自負はあれど筋力が付いているのでコントロールを誤って端子を曲げてしまったりもした。
直すためにダイソーで工具を買ってきたが、それはまだそのままに、今日のマクドはつぶさずに食えた。
何もする気が起きずというか、今までやったことを整理する意味で行動より休息が大切だと思い、テレビを見ていた。先日から幾つかの番組が心に深く刺さった。NHKだ。
テレビの感想をブログに書いても仕方ないかもだが、誰かテレビの関係者が俺のことをブログを通して知ってくれているのか、諜報員の仕業か投書によるものか、それともそもそもテレビが世の中の多くの人に刺さるようにつくられているからか、まるでこれは自分のために作られたと思うような番組が3日ほど続けてあった。特に音楽関係。
毎日つけている手帳には週1回分の自由欄があるが、2週白紙でためている。去年は全部埋まるまで何か書いた。それで先週何をしていたかというと鉄拳5をしていた。
鉄拳のフレーム本を買うくらいなら、ネットに断片的に上がっているフレーム情報をかき集めて手帳に書いてやろうかと思ったが、それはしなかった。だが、左パンチが10フレームは書かずに覚えてしまった。
俺は中学受験を周りの子ほど勉強しないで乗り切った。というか、勉強法というとノートに漢字を読みながら何度も書くという低学年からの漢字勉強はしていて、それで高校までずっと国語の成績は良かった。だが、理系選択だったので反対に周りから「国語のテストって文章書かされるやんなんでわかんねん?なんで正解取れんねん?」と言われたことがある。自分では読書や漢字練習の賜物だと思っていたが、もっと本を読んでいるやつだっているしギフテッドな能力だったんだと今から思う。
興味のあることはノートに書いて無理やり暗記しようとしなくてもスッと覚えてしまう。ただ、それで出来ることは映像記憶や聴覚からの記憶なので、論理的思考力ってやつは周囲から弱いと言われていた。
それも今から考えると間違いで、うちは宮家から4代前に商家となって商売ゆえの逆言葉から騙しのロジックがあって、会う人すべて騙してしまっていて先生すらも騙してしまっていたのだ。
その論理を大学の論文のように全て書き記して明かしてしまうと、たちどころに読者が得なすごい話になるのだが、それはほんの短い間のことで、すぐにデマがもっと大きく流されたり、モノの価格の付け方が変わったり、人の消費動向が変わることで経済の流動的で固定的ではない部分がそっくり入れ替わってしまったのであった。
その間に変わったこと、得したと思うことは異性と話が通じたことだろう。前時代的には異性で話が通じることはそれすなわち交際であり発展形は恋愛結婚なのだろうが、近年ではそうでもなく、奈良の人間にとってもそれはとても古めかしい都があった時代の付き合い方にも似ている。
商売が全部ひっくり返ったとしても、作られて売り買いされたモノ自体は無くならないので、モノの生産が進むとひっくり返り返されやがてモノが行き渡り多くの人が豊かな時代が来ると俺は考えていた。
しかし、商売がひっくり返ることで手持ちの現金を使い果たし、ついにブックオフやハードオフに質入れの如く現金を求めて、今度はモノを独占して売る商店と貧しい人に分かれてしまうとそれはそれ以前と顔ぶれはそんなに変わっていない気はする。
観測範囲で、ギターが売れて自称ミュージシャンが増えても楽器屋の先生がお金持ちで良い先生に付く嬢ちゃん坊ちゃんが上手で、あとは身売りの如く芸事で貧しいながらも身を立てようとするする人がいるくらいで。俺にとってもギターは数のひとつ。
それで、やりたかった音楽はもともと音楽の先生から習ったものではなくテレビで見たものが好きになってレコード買ってコンサート行って生演奏に感動して、それでやろうとしだしたけど、追い求めているうちに捕まえるたびに立ち消えるようなそれはレコードの音源で、生演奏のように見えたものすら今では幻想だったのではと懐疑的になる。
なにが変わったかというと、諸々の変化はあったもののビッグマックを指で潰してしまって、またそっと持ったくらいのことなのかもしれない。