有利な契約を勝ち取れなかった貧しい日本人

 IT業界のオフショア開発について、俺の20代は日本のソフトハウスに捧げたわけだが特に日本HPの傘下にいた頃は米国側から見て「安く使える日本人」であったのだろうなと振り返る。

 日本人が中華端末を玩具のように買うように、HPとCOMPACの合併の時に弱い方のCOMPACの部署でソフト開発をしていた。富士通のサポセンと隣の部屋というか仕切り一枚で、サポセンと言うとお客様からのクレームでしんどいと聞いたことがあるが、ソフト部門が隣の部屋で問題解決していったので、サポセン美女がHP側の事務の姉ちゃんにひそひそ話すと「これ出来ますか?」と俺のところに寄って来て「ほいほい」とやっていた。中には分からなくてもGoogle検索で解決する事案もあり、このころGoogleを使うのは珍しく、Yahoo!とか楽天とか日本カスタマイズされたものと区別されていない一介の検索エンジンであった。まあ、ググって解決できる仕事で給料をもらえていたわけで楽な仕事と思われたが、解決しない時もあり、たくさん本を読んでWindowsのバグをC++のプログラムで解決していた。

 将棋ソフトのBonanzaがコンピュータ将棋選手権で優勝したのも、9.11テロで飛行機がビルに突っ込んだのもこの頃だったと思う。HPの社外的には俺に用事を言いに来ていた事務の姉ちゃんがホワイトボードとかプロジェクターを使ってプレゼンしていたので、今でいう「ちょまど氏」のような華やかな担当者だったのだろうなと思う。

 特に九州の医師会にHPのマシンを納品する時には俺は腕章を付けていて、誰から見ても「セットアップのお兄さん」で開発者には見えなかっただろうなと振り返る。

 白衣を着て研究者になるのが夢だった気がするが、その化学の研究者である保木先生が何故か将棋のソフトを作っている。運命とは分からないものだと思う。

 ふとWindowsの売り上げを考えると「80億のデバイスで使われるJava」の触れ込みと同様にWindowsのソフトも億単位のコピーが売られ、そしてその開発をマイクロソフト本社ではなく富士通やHPにアウトソーシングして、それがさらに日本のIT派遣に下って来て、出来たら吸い上げてマイクロソフトインテルの特許になって行く。あの頃から日本の職場にも中国人やインド人は多く、件の事務の姉ちゃんも俺に嫌味で「NIKEの靴とかインドで買ったら日本より安いんですってね。本物かどうかわからんけど」とか言っていたし、管理職は週刊ダイヤモンドとかを読んで中国株とかの話をしていた。

 家のパソコンが「アップデートしています」とか「ようこそ」でクルクル回るとしばいたろかと思ってタバコを吸って待つ今の俺だが、あの時もお客さんを3時間も待たせるなんてとうるさい人がいたものだった。プログレスバーを付けて、何%進んでいますというプログラムが上手く行かず、30%で2時間止まって30の次70になって秒で100%になるとか「なんでうまく計算できんの」というクレームがお客様からではなく上司や事務の姉ちゃんやサポセンの美人から来るとホンマにキレそうだった。

 30代には派遣というのも珍しくなくなり、飲み屋でC言語の内部関数について愚痴る同業者に「C++とか出来るらしいなぁ」と言われるほんの少しの優位を保っていたと記憶しているが、40代になるともう求人に乗っている技術用語が半分くらい分からない。

 今なら分かることがたくさんあるが、今分かっても今更なのだ。時代の移り変わりは速い。既に意欲的に勉強して精力的な50代や60台を目指すのではなく病気で70までにポックリ行くんちゃうかと逃げ切りのような人生計画を立てている。10代の時そうだった。甘えたのボンちゃんで40以降の生活など人生の墓場だと思っており、若い時間を楽しく生きて何が悪い、受験勉強なんてしたって結局サラリーマンになって終身雇用で年金もらうまで働きづめになるだけだろう、せめて中高で遊ぼうみたいな考え方だった。

 それが実際に40代になってみると、良いことも悪いことも想像していた事とは全然違う。そもそも会社員で働き詰めの終身雇用以前に会社員では無いからだ。何故か高校の時にやる前からあきらめていたエレキギターを毎日弾いている。


🄫1999-2023 id:karmen