愚者の哲学、賢者の言葉

 朝からテレビのバラエティに元グラビアの壇蜜さんが大学時代に読んだ本としてソフィー(哲学)の話がちらっと出ていたのですが。

 哲学は誰しも若い頃に一度はハマるもの、という風にそのルーツとなる西洋では既に古いもの、東洋に置き換えてみると学生さんとかは偉いけどお釈迦さんの言葉も残っているみたいな位置づけだと思うんですよね。

 んでソクラテスの「無知の知」を考えてみると、まず「我々は何も知らない」という文言自体が主語の我々と知るの否定形たる「知らない」によって「何も」が否定されるという論理がまずあるわけです。少なくともちょっとした言葉を知っていて、それで弟子に何かを説いているわけですから。そして当時の事は分からない部分もありますが、弁論士を問い詰めによって黙らせて「結局何も知らない」というのも間違いで、先にお釈迦さんの話を出したので考えてみると、その頃から梵語で示される原始的な言葉はあったわけで、その言語体系で分かってないところを突いたとはいえ「知らないという事を知っている我々の方が賢いのではないか」というのは逆説で、賢いという言葉に齟齬がなければ多くを知っている方が賢いという言葉の定義があって、そして当時の弁論士はその賢い位置にいたわけです。

 ただ、弁論士を目指す学問が古代ギリシアにもあったと思われるし、そしてそれが現代では受験で、とりあえず意味も分からないところから繰り返しノートに書いて読んで覚え込まないと基本的なところから出来てこない。その苦労に対して問い詰めて困らせるというのは易き道で、それはあくまで勉強する時に調べ物をする自問自答の体を取るべきであって、そこまで人を困らせたソクラテスは流刑になったというオチがあります。

 結局、知らない立場から「それはどういう意味か」と教えを乞う形式を取る以上は結末に「結局何も知らないではないか」という決め台詞があったとして、話者としては相手の知識に委ねてモノを学んでいて、そしてそれに対して調べるという立場、調べ方としてどうするのかという方法論もないままグルグル考える哲学者というのは愚者であるというのが俺なりの結論で、しかしそれが愚者ではなく賢者として語られるのは、無知の知の答えが逆説であるという俺の結論がなかなか出なかったように、教えるのではなく考えさせるための決まり文句として愚者かはたまた賢者の言葉が定跡となっている。

 なんでこの話を書こうかと思ったかというと、趣味の格闘ゲームについていつものように何か書こうと思ったんだけど、まあ確かに読まれてはいる。数十人から多い時は百を超えたこともあるが、最近は九十あたりを天井にアクセスのグラフが推移していて、まあ誰かしら何かしら書いたものは読まれている。

 けど根本的に、俺に話を聞きに来る、用事があるなんてのはどういうことかと考えると、他によっぽど当たるアテのない情報弱者なのではないかと思い始めている。ゲームもひとりで遊べずに、ゲーセンで勝っていた頃の俺を「とにかくアイツを負かしたい」と目の敵にした、その頃の俺がお山の大将ならせっかくネットがあるのに俺のところにまた来るのが情報の在り処に迷った人なんだろうなと思う。もちろん、そう上から下に見るのではなく、俺がここで助けを求めるように毎日打ち込んでいて、こんな困った人がいて指導して助けてあげないといけないと思って読んでいる人もいるかもしれない。

 そうしてみると、俺が大将で周りがなびいていた頃はひとりひとりと膝をついて話すのではなく一撃周知の意味でネットは便利だった。だがそれがひとりひとりの問題となった時にこうして不特定多数から読まれるブログの形でモノを書くっての、少なくとも想定する読者というのがいて、そしてそのうちにずっとソクラテスから抜けられない人というのは実はたくさん見て来ている。

 テレビではその後にヘーゲルもちょろっと出たよね。それで俺は壇蜜さんはどうしてグラビアの道を選んだんだろうな、自主的なのか不可抗力だったのか、それでも売れたわけだし勝ち負けで言うと勝っている人だよな、美人と思って見入ると反対に操られてしまいそうだな気を付けなきゃと思うと、安易にソクラテスの話に相槌を打ってはいけないと思ってよく考えたら、逆説だった。まあゲームの話も世の中には罠に嵌めるインチキが横行していて、真剣に攻略しようとすると一見こちらが逆説に見えるんよ。

 仕方ないよね、それは最近では正論同士のその論拠が右と左で違うんだってこと、なんとなくだけど分かるようになってきたと思ってる。それが右左ではなく個々人であることに多くの人は子育てを通して定式のない子供の育ち方から学ぶもんだと思うんだけど、子供がいないのに勉強でそこまで分かった気になっているのもどうよ?

 と、ここまで書いて反対に無知の知は分かりやすさに求心力があるのでこのまま長文で投下するのはどうよとしばし考え、晩飯に缶ビールを飲み、酔った頭で短く考えてXにポストした。

 まず知らないから他人に問うて「お前も知らないじゃないか」と言っているソクラテスが知らない。問いが先にあるので知らなくて詰まるのが問われた方になるだけの話だが、この弁証法をビジネスで使おうとするとまず上官から質問が来て「質問を質問で返すな」のパターンに持ち込まれやすい。質問を質問で返して良いとなるとソクラテス「それはどういう意味ですか」「あなたそんなことも知らないんですか?答えてみてください」という返し方もあるが「あー、さては知らないな」から永久ループに入る可能性もあり、ただモノを教える本ではなく対人関係に於いて尋ね方のひとつの言葉以外に学ぶべきところは無いのかもしれない。

 考えて分かる問題なら、誰かが昔に説いていそうなものだが。どうでもいい自慢をすると俺は説けない事が証明されたNP完全と言われるセールスマン巡回問題にループで検索を始めて今分かっている一番近い答えを出すという方法論でアプローチした。確かにいつまでたっても本当の最短経路である保証は出来ないかもだが、割と簡単に人が試すよりも近い経路が見つかって、十分実用的なのである。

 夕飯前にはもう死にたいと思っていたが、缶ビールで晩酌した後にしじみ汁を飲み、酔いたいのか酔い覚ましなのか良く分からんが、とりあえずくだらないことを考えて生きています。俺にとってはくだらないことを考え続けてモノを書くのが生きがいなの。


🄫1999-2023 id:karmen