「悪人正機」で失った「無垢なる幸福」

俺は子供の頃に親父と遊んだことは数えるほどだが、買ってもらったのは色々ある。

母親からの愛にも飢えていて、後から弟が出来た時

「お兄ちゃんで失敗したから」

と母親がよそに話しているのをたまたま聞いてしまった。

俺は親の敷いたレールからやや外れ、外のゲーセンで格闘ゲームに夢中になった。

ヤンキーやドカチンは坊ちゃんをからかいながらも優しさがあるように思えた。

おもちゃ屋のキューピー堂のおばちゃんや兄ちゃんとも仲良くできていると思えた。

しかし、それらは子供の時に親から与えられるような愛ではなく条件付きのものだ。

ある時にその条件付きの愛もどきつまりお金のための態度を得るお金が底を尽きた。

それでも自分で何とかして生きねばとは思えた。自殺は考えたが決行には至らない。

それから、親鸞仏教の悪人正機の方が実は正しい教えかもしれないと考え出す。

だがそれでは、キューピー堂のおばちゃんと兄ちゃんが俺にそうであったようだ。

簡単に言うと打算的な人付き合いになり、おもちゃや本でしか自分を癒せない。

それでも世の中には無垢な優しい人がいるが、打算めいた甘え方になってしまう。

かつての俺は無知でお金があるから甘やかしてくれる人にそれと知らず甘えていた。

それは騙されているかもだが、至上の幸福だったように思える。

親切な人にも甘えるからには有償であるべきか、対して無償だとこちらが騙しだ。

騙していると思うと、どこか心を許せない罪悪感に苛まれる。

まあ、それに対してもっとも普通の答えは妻子を持って愛情を注ぐ側になること。

容姿の良い異性と不倫のような関係を持つとかえって心の闇が深くなるだろう。

裏切りや盗みは他人から罰せられて不幸になるのではなく自戒への冒涜と読み解く。

悪人の心を読み解けない限りは全てのことを理解できているとは言えない。

それが悪人正機ではあるが、失ってから善や秩序で出来ていた世界を羨むとは。

悟りとは最大の幸福の境地とは違って、なんとも侘しいものなのかもしれんな。


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