「動的平衡」というのが2018年のトレンドだったらしく

「生きている」とはどういうことか。有機物と無機物の違いは生物かそうでないかだ。

西之園萌絵は「じゃあ有機物で出来ていたら生きているってことですか?」と犀川創平に問うが「それは答えを入れ子にしているだけだよ」と突き放される。つまり生きているものが有機物であるわけだから平文化すると「生きているもので出来ているから生きているのですか」と問うてしまったわけだよな。哲学の初歩に於いて「なぜか」に答えても「さらにそれは何故か」と問いを踏み込むと、絶対に分からなくなる。これは学問の常識だが、哲学者ではないその時代の論者は雄弁術を身に着けている。哲学者ソクラテスは1対1の問答によって相手の無知を突くが、そうでなく人の群れを集めて高台から神託を宣する。群衆は野次を飛ばすことはあるかもしれないが、論説してすっかり言い丸めてしまえば事は足りるのだ。

このメカニズムは恐らく「書物にして読ませる」という出版の世界でも同じことが起こっているだろう。本を買って読む。読者はアマゾンのレビューで口々に批判するが、良く出来た本というのは論理にスキがなく、うかうかと文字を追っているとすっかりその気にさせられるのだ。もちろん、人に知恵を授けるため、口伝ではなく書物の形を取るということもあり得るが、多くは秘技として隠されてきたものが暴かれ始めた時に役に立たなくなった情報を出版することで未だ知らないものに流布させて秘密をお金に変える。書籍代には利益があるからだ。

ではそんな本は買わないほうが良いのだろうか。それは程度問題である。市民が皆知っていることより出遅れているなら読んで学んだほうが良く、市民よりよく知っていたら読書を休み適度に隠したほうが良いかもしれない。足並みをそろえているか、出し抜いているか、出遅れているか。もちろん個体差はあるだろう。問題はバランスである。

この問題は昭和後期から平成にかけてマスメディアが主導権を握ってきた。新聞やラジオ、テレビを通して市民が関心を寄せている情報を流通させる。知らなければ恥なのはどうしてかというとマスメディアで他の人が皆知っているからだ。知っていると凄いことは皆が知らないからだ。

生きているということの根源的な意味は顕微鏡のようにミクロで定義されてきた。それが有機と無機の境界である。

外界と生物を見た時に境界線を跨いでの増減に於いて「張り合っている」ということが動的平衡で考える生きているということ。

ソクラテスは全ての論者を無知の知で言い負かしたが、島流しの刑で社会から隔絶された。社会の中で生きるには、相手がそこまでしか知らないことを悟った時に止めを刺す行為は忌み嫌われる。嫌いなやつだから黙らせたい、看破したい、あるいは発展途上と看做し教えたい。これらは相手の人格に対して自分の操作が及ぶようにするための侵害行為なのだ。

少し稚拙な例えになるが、腹話術師の人形は観客から見て命が宿っているかのようである。雄弁術と書籍の話を先に出したが、関西では壇上から論説を打つのではなく漫才の形で対話を聞かせる形式も一般的である。二人が話していることから、観客が関係性を読み取って面白がるのである。

社会の中で生きるということを考えた時に、大阪では面白くないといけない。これは社会参加のハードルとしてかなり高い敷居だと思う。関西人で括られがちではあるが、奈良から大阪に出るのは結構に大変なことだ。生きているとはどういうことか、というテーマから出発したが「コンビでおもろい」という相手を見つけることが生存のひとつの方法だろう。

ひとり飯が平気なら、とりあえず飯食って寝て生きてはいられる。だが、それで本当に生きているか。医学的に見て生きていたら生なのか。当面の目標である社会復帰に必要なものを俺は今考えている。