忠誠・苦行・誘惑・裏切り

 ドラクエ風RPGを自作でOSSとするにあたり、戦闘、マップ、音楽、モンスター作画において、スライムは記憶通りに描いたらトレスや模写と遜色のない仕上がりでほぼ自分のものとなっていた。ただまあ、著作権ってその書き方のプロセスにおいて自分で描いたか覚えて描いたか映したかというところが争点となるのではなく、原型と一致するかが争点になるので、悔しいが違う絵にしないとダメなんだろうなという所が悔しいところではある。同じように音楽も心に刻まれた通りに描いたメロディーは何度も聴いたドラクエのフィールド曲であったが、これは主旋律だけそのままで伴奏形は模したつもりだが記憶にない部分を自分なりの音楽として編曲して、そっくりそのままというわけでもない。まあスライムの絵に手ブレや目の焦点の具合など味があるように、鳥山明すぎやまこういちへのトリビュートとして捉えて欲しい。

 若い人にはパクリだろと早合点する人もいるだろう。ちょっとゲームを作ろうかとそこにあったドラクエをポンと真似したわけではなく、俺は小学校の低学年くらいでドラクエと出会い、それにナムコゼビウス遠藤雅伸の伝説を読み、設定からプログラムまで全部描いて機械語で日常会話するというファミコン雑誌の冗談のような話を真に受け、ドラクエにはスタッフがたくさんいたことを知りつつもメインプログラマー中村光一が最終決定権を持っていて、それ以外は全てゲームの本体に入っているわけでは無いわけで、ドット絵や音楽もすべてプログラマーの手でROMに入っているような想像をしていた。

 そんな俺はテレビで見たパソコン机でモニタに向かい指でパチパチとプログラムを打つその姿にまるでピアニストのような感銘を受けたのは先に遠藤雅伸の伝説を読んでいたからだと思うが、脇役的な中村光一に憧れたし、もうそれは子供もながらに将来像ではなく雲の上であった。

 だから22歳から40歳までプログラマとして勤め、退職して親父の店の二階でパソコンでプログラムをして、今までの経験からやっとドラクエを作ろうとなったわけで、そこを売れ筋のパクリみたいな捉え方をされると全くの誤解だと思うが、そう見えても仕方ないことも分かるので、分かるから難儀なのだ。分からない奴は誤解だと頑張って説得を試みるのかもだが、完成品の見た目や鳴る音が同じでは受け手から見て同じものだろうという事になるので、ともすると贋作ということになる。むしろ似て非なる贋作こそがまがい物でありながらオリジナリティを持つのだ。

 それはそれで、残るひとつが代表者である堀井雄二の「シナリオ」である。プログラマーに憧れて逆アセンブルから全てを学んだ俺は企画脚本というプロジェクトの出発点が位相的に反対から来ているので、ゴールという事になる。

 これから作ろうとするドラクエのシナリオをネタバレしても仕方ないとは思うが、テーマから考えて、落としどころのひとつは「裏切り」である。ノイマンゲーム理論でも使われるこの「裏切り」というのがゲームを面白くしている。

 低学年の俺は何故裏切られたか、騙されたか、ということをもういちど問い直すと、例えば新シナリオとして王様の命で冒険に出て、苦労して旅して褒美をもらえると思ったら実は王様が魔王の変身した姿で全ては徒労だった、そして手柄のアイテムを王様に取られて王様が魔王に変身というか真の姿となってそれと戦う、という寸劇を考えたのだが、オチがそれとしてそのひとネタに肉付けをしていくのはなかなかに難儀である。

 このシナリオが思い浮かんだのも、俺の深層心理に影響しているだろう。ドラクエの出発は王様の使いで徒労なのである。苦労して苦労して、お使いに出され、いい加減嫌になるところに甘い誘惑があり、そしてその先に裏切り合いの寸劇が用意されている。

 まずプレイヤーに苦労させることで、簡単な誘惑が本当にゲームを楽に終わらせるかもしれない誘惑として成立するのである。この堀井雄二の描き出したちょっとの面白さの肉付けとして、全てのゲーム体験が用意されたのだろう。ちなみに王様が変身するというのは俺の考えたシナリオであって、ドラクエのネタバレでは無いから安心してくれ。ただ、王様も魔王も別だとしても子供の頃の俺からしたら同じファミコンカセットの中身なのである。

 まあ、シナリオを書こうかと思って、書き方を勉強しなきゃと安易な手として検索で「シナリオ 入門」などと打って、出てきた本が2000円前後から安い古本は300円ほどで見つかったが、余計な買い物はしないでおこう、そう俺には学があるかもしれないと昔勉強した国語の本を読み直し、動機、主題、中心思想という書き方の深め方について読みなおし、そうブログは本当に適当に書いているよな。と反省した。しかし俺は訴求力を高めるために7:3くらいである論旨の3を削って10にしてしまう詐欺や押し売りのような文章は大嫌いなのである。

 シナリオレベルは俺はまだシナリオライター劇作家としては1年生だなと思う。企画の始まりであって、出発点であるべきだが、先に書いたように逆アセンブルからはゴールなのである。そして、そうしてみると今までの何もかもは報われるのか徒労に終わるのか、少なくとも同じシナリオでは期待を裏切られtパクリの烙印を押されて汚名をかぶることも予想される。

 主題をもう一度考えると、ひとつのゴールは遠藤雅伸で、鳥山明で、すぎやまこういちで、中村光一それぞれひとりの人なのだ。そうすると堀井雄二もまたひとりの人でありろうし、今まさに習うべき先達か倒すべき宿敵かという所で、少なくとも今までの俺は中高生くらいで「堀井雄二のシナリオなんて」とナメていた。

 だが、それでもファミコン時代にゴーサインのかかった面白いシナリオなのだろう。ゴールになって、それが良く分かったのである。

 まだ、世の中の人はドラクエ12の発売日を待って期待しているだろう。憎いわけでもない。そうして待っていたら、年齢の関係から恐らく俺のが長生きだろう。いや病気で先に逝くかもしれんけどな。そして俺は裏切られたと思っていたが、実は明示的ではなく内心で先に裏切ってきたのである。このことが今日シナリオを考え直して分かったことだ。

 ゲームの中には忠義か裏切り以外に選択肢は無いようにも思えるが、全ての人が最後までクリアするわけでもなく、途中で放棄することだって出来るだろう。しかし最後まで遊ぶその結果が、ひとつの同じゴールにつながっているわけでもない。

 何のため、という主題を考え直したら、王様の命ではなく姫様との愛という動機も勇者の選択を支援する。だが、小学校の低学年に16ドット平方の姫に愛は無かった。

 あらためて、プログラム、作画、音楽を模倣してみて、そしてシナリオまで到達した時に、ドラクエとはどういうゲームなのか、という主題に新しい視点が加わったのだ。

 いままでの俺にとって主戦場はVisualStudioであった。今日は手帳で仕事した。

 そういえば絵を描いてプログラムを組んでどんどん仕事を進める俺に一緒にやろうと組んでみて何も出来ない仲間がこぼした一言が「このゲーム何するゲームなの?」だった。もちろんプログラムも出来ないし絵も描けない仲間だから何も出来ないなと切り捨てたが、その前に俺が何をしたいかがあの時にまだ明確になっていなかった気がする。

 つまるところCSKのアジャイル開発には、支配か革命かではなく、戦場で生き残る以外の思想や選択肢が無かったのであろう。重装機兵ヴァルケンだったのである。


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