特殊な学歴だけど「ある方」と思ってみることとした

 朝からイーロンマスクのポスト経由で字幕も無い米国議会のディベートを見ていた。

 英語は中高で学び、渡米経験もあり、少しは出来ると思っていたが、難しい討論だと耳慣れない単語が多すぎて二人の話者が互いに何を言い合っているのか分からなかった。

 それから、最近伸びている自分のこのブログの過去記事を読み直していた。読めたものではないと自分で言うのもどうかと思うが、自分にだけ要約して分かるものは読みやすいが、何も分からない人にいちいち説明している文章を今一度もうちょっと分かりやすく書けないものかと思案していた。

 言葉の壁は大変分厚い。高校の学園祭で校舎の壁にベニヤ板を貼って壁画とするのが伝統だったが、俺の年は竹田が選んだ「バベルの塔」の壁画を描いた。今読んでいる中野信子の「ペルソナ」にもバベルの塔についての言及があるが、何度も聖書から引用されるこの話は「人が神を超えようと高い塔を建てはじめたら、神が怒ってそれぞれの言葉をバラバラにした」というところだが、つまるところ日本一高いものを目指す時の方言はいわゆるテレビやラジオの普及で共通語、東京弁で解決したかに見える。これがさらに国際協業、ワールドワイドウェブになって、何故に日本のニートのこの俺が米国議会の英語というか米語なのか、その言葉を理解しようとしているのだろうな。

 米国で通じた言葉というと基本的に「ハウマッチ」である。3万円を200ドルにして、それがあるうちだけ市街地で暮らせただけの話だと思う。メシを買って宿に泊まる。日本にしか無いと思われていた日本製のゲーム機が米国でも販売されていて、いわゆるゲームオタクは米国にも居て、親切でゲームに詳しくて、それだからキャラクターの操作や試合の成り行きを通して会話が成立した。

 しかし、向こうでプロとして暮らせるかというと、勝ったトーナメントのお金の話に難しい言葉で負かされ、通訳に立ってくれた船田さんがどうにか200ドル手に入れてくれて、お金のあるうちに帰ろうということにして、そしてシアトルの空港で別れるときに見送りに来てくれた向こうの人は「なぜ日本に帰るか、もうずっといても良いのに」と言ってくれてが、観光ビザであることや日本に仕事と借金が残っていることなどを告げ、そして船田さんは帰るなら持っている米ドルを分けて欲しいという話だった。

 「もうずっといても良いのに」と言ってくれた人も恐らく入国ビザの種類なども知らないだろうし、船田さんも米ドルが無いと暮らせない。次の旅団の目的地はフィラデルフィアつまりニューヨークのそばであったが、用心から断って帰ったことは始めは後悔もあったが、今となっては安全に生きながらえるために必要な選択だったと思う。

 しかし、帰国後から日本で段々と言葉が通じなくなって、精神病院に送られることとなる。だいたい、俺の学歴は専門卒であるが、大阪に出て独り暮らしになってから寂しさを付け狙った新興宗教創価学会の誘いに乗り、俺は入会をした。

 安心しきって暮らしている日本の街中にほんのりとした違和感と共に創価学会の会館がある。そこは守衛がいて、中では大きな仏壇と映画のスクリーンのある部屋があり、同時中継という視聴会や信者向けの音楽ライブなどが行われている。ヤマザキパンのような市販のパンが大量に持ち込まれ、信者だと中でパンをもらって食ってテレビや映画のような教祖池田大作のビデオをスクリーンで見て、それから座談会などがある。

 しかし、今思うとあの時言葉が通じたのは幹部とか候補生だけで、なんか違和感を持った信者のひとりひとりと人としてのつながりを持つことが出来たか、あらためて振り返ると知らずに入ってしまって、そっと抜けてきたと言った方が正しいかもしれない。

 創価学会にも教本があり、関西文化会館が「カンブン」、中央文化会館が「チュウブン」で、ちょうど昔の大学生が「漢文」「中文」の話をしたのに、喫茶店で遠巻きに聞いていたらそういう風にも聞こえる言い回しなのだが、話の内容と略語が指す真の言葉の意味は全く違うことになっているのだ。経歴詐称なんて犯罪的に怖いことを考えているわけではなく、子供の嘘のように可愛げに「学会」と言って胸を張る幹部候補生たちは創価学会の中で育った二世信者だ。それと、ゲームオタクが海を渡って海外でストIIの話に盛り上がることを、少し近い目で今は見ている。米国でも特にネオジオ龍虎の拳の「覇王翔吼拳」が「ハオーショーコーケン」で通じるし、田舎であるネブラスカ州には渡米した日系二世のひらいた日本語スクールまであるようだった。

 俺は自分の学歴は低い方だと思っていたし、高校の卒業の時点で大した大学に行けない俺を高校教師が「一生言われるぞ?」と嫌味に笑っていたのをよく覚えている。そのことが生成系AIの発展で、高校教諭とはいえ一生は食えないような世の中になればいいのにという日本の構造に対して破壊的な願望をどこかに持っていたのも確かだ。

 ただ、そうなれば本当に困るのは自分自身もではないかと、朝から英語のディベートを見ていて思ったのだ。つまらない学歴でも、俺は「ある方」で言葉が通じる方だ。

 その言葉はいつまで通じるのか。コンピュータ将棋の世界に入ってから、分からなかった言葉がひとつづつ分かって行くとともに、その外界と段々と言葉が通じなくなってゆくこともまた感じている。通じる界隈というのは限られていて、まあ月並みに言って「郷に入っては郷に従え」で、そこの話し言葉を覚えないと話は通じない。

 俺はゲームで通じた方だが、アニメオタクが席巻して、オタク知識が無いと例え流暢に外国語が話せたとして通じなくなる世界があったら、それはそれで怖いと思っている。まあ、もう一度月並みに行って「バベルの塔」かもしれない。高校の頃から学園祭を仕切る生徒会のメンバーはゲームやJ-POPで通じていた。サッカー部の話だけ分からなかった俺はテレビでJリーグを見ないで受験勉強に専念しようとしていたから。

 正直、ストリートファイターの話も俺はスト6くらいになると分からない。将棋の話も分かるようになったと書いたが、どんどん新しい知らない話が増えて行って追うのに大変だ。そんなことを話せる相手もいないに等しい。だが不思議と孤独というほどでもなく、そりゃ言葉が通じるには相互理解というか、共通のプロトコルが必要なのは当然で、安心しきってふたつのプログラムで通信するプログラムの勉強をしている。

 意味など分からなくても、会話なら返事が返ってくればいいし、用事や仕事や買い物ならそういう風に動けば事足りるのだろう。病院帰りのコンビニの外国人の姉ちゃんに「にくまん!」と言うと通じたことを頼もしいと思った今日この頃である。

 


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