
最近、不意にブランカで遊びたくなることがある。対戦で有利で勝てるキャラだから使っていたものが、手に馴染んでそのキャラで遊びたいという動機に変わるのが不思議だ。ストIIのダルシムだってそうだったし、トレカのMTGでマハモッティ・ジンやシヴ山のドラゴンが好きになったもの数字が大きいのと絵柄もあるが、ゲームを対戦形式で遊んでそれを繰り出して攻撃することが即ちゲームエンドの勝ちであることから、その絵柄がゴールのように見えるからだろう。
しかし山崎ブラベガではGPが低く神豪鬼が出るか不安であり、実際4チームと中ボスを倒して写真の1129ポイントであった時はやや落胆したが、決勝でファイネストKOが決まり、神豪鬼を倒してエンディングを見た。山崎のエンディングメッセージとしては悪くないのだが、ギースのエンディングメッセージを知っていると複雑な気分になる。このメッセージで形作られる世界観も、キャラの好みに影響している。
俺は流されやすい性格というほどでも無いかもだが、19歳の頃にヒョロくてケンカも弱いくせにゲーセンでストIIの対戦に絡み、画面で殴る蹴るしてゲームで勝った後に実際のケンカを売られて何も出来なかった高校生の頃と違い、ゲーセンバイトもして働くおじさん相手のオカマ店員接客業というか、まあ極端に言えばだけど中世的なモラトリアム少年がケンカの相手ではなく戦うおっちゃんの話し相手ではあったと思う。
ゲーセンで会話もなく100円を入れて台を囲むおっちゃんと自分も19歳でゲーセンバイトとなって、同級生は大学だが仕事をしていて学校も違う遊び仲間がたくさん出来た。それぞれにゲームに対する思いがあり、アツく語るのだが、ほぼほぼ勝ち負け感による感情論だったと今では思うんだけど、それがずっと分からないで年を取った。
別に詐欺というほどではないが、ゲーセンの客同士で100円を入れ合って遊ぶわけで、場代がどちら持ちということを考えると、負けた方が100円なので不平が出るのも分かる。かといって文句を言って勝ってしまう、負けてもらうだとゲームとしてそれで面白ければバカなので、真剣勝負だったという建前はいる。
いや、バカだから負けてもらうで楽しくて100円払っているというと正論だが、人としてそれ言っちゃならねぇという遠慮もあるだろう。書いちまったが。
まあみな、簡単なレバー操作でアニメが動いてキャラが叫んでケンカして、ケンカのあとには仲良くなって軍団が増えて、何かと楽しいのは最初何も持たない同士がゲーセンで100円負けるところから店を占領するくらいの軍団に成長するわけだから本来無いはずのシミュレーションRPG要素までストIIに人為的に付いたわけだが、それがストZERO3のことで、カプエス無印、カプエス2くらいで増えすぎた仲間で互いに全国優勝を取り合ってまた仲違いが始まるのである。それはそれで当然の摂理だろう。軍団でかかって倒されてくれる丁度いい相手がもはや居なくなったわけだからな。
この辺の事は歴史でも、戦国時代の織田信長の全国統一の夢と、実際そうなりそうになったら内部分裂が起こって藩閥制になったわけだから、統一が統一でも治世は分担でというひとりの人間の裁量で国を全て治めるのは難しいという、これなってみれる人滅多にいないからなかなか分からないかもだけど、俗にそういうものかと。
となると、誰も彼もが敵同士の中で頼るべくは下についてくれるものということで、ゲーセン店員で話し相手というのは多くの格闘ゲーマーが欲しがる負け役だったわけだが、俺にも欲やエゴがあって、年も取るといつまでもそんな仕事じゃ楽しくない。
なんで出来たかというと、勉強とゲーム以外何も知らない進学校卒で大学に進めなかった19歳の俺にとってゲーセンの店番でもらえる100円は大金だったからだな。
そして俺がそれから専門学校に進んで会社に入ったのがゲーセン店員として俺より年上でもその仕事を続けている池ちゃんが面白くなく、ゲーセンで遊ぶものだから遊び仲間が池ちゃんについて、多くのニートがしている「大学のフリ」に池ちゃんは乗ってくれる。フリでもゲーセンに100円払って遊んで勝って酒でも飲めばいっちょ前。
んで俺はというと、会社員も40歳でダメになって、40代から本格的に子供部屋おじさんが深刻化して、いま47歳でもうじき48歳だ。あの頃のゲーセン客は今頃何しているんだろうなと思うと50歳も超えてて、しかしゲーセンというのはあまり変わっていないようにも見える。
問題はEVOにあるのではなく、ニートでも100円どうにかもらえる仕事も専門卒で得た会社員の身分も何も無くなった俺の方にあるんだよな。確かにあの頃の相手の話にもおかしなところは多分にあるんだが、いまさらそれを正しても何も始まらない。
東京では強キャラだろうがハメ技だろうが取れる100円玉があるらしいが、それは相手もするわけだから勝ち続けるのはEVOを取るほどではなくとも恐らく難しく、家賃の水準とかも高い。負け役で取れる100円玉が本当にあるのかはこちらからでは分からない。負けてもらって100円払うではなく、人口密度が多く自然にもっと厳しい競争になるのだろうな。
高校の時は反対に競技としてそちらの方がレベルが高く、奈良にいながら東京が羨ましかった。もっと強い相手が居てゲームもいつでも対戦できることが羨ましかった。
けど今は腑抜けちまってラクな商売がないものかと考えてしまう。プログラマとしてスキルアップなんてのも雇い主の言いなりになるのが前提で、自分で1円でも稼げねぇかとアフィなんかも始めてみたし、通勤もかったるいから辞めたのだ。
そう、ゲームの腕を磨いて100円取るのと自分を律してスーツを着て出社するので会社員を選んだ俺の次なる選択肢がそれよりさらにしんどい仕事ではなく、多少の貧しさを辛抱して得られる労苦からの解放だった。
そう考えると、格闘ゲームがより鍛錬の厳しい方に行くのが自己啓発的に楽しいという考え方と、絵柄も手順も抜きで勝つための条件が易しい方の強キャラに行くのも自然なこと。
確かにストIIのガイルと比べてストZERO3のⅤ豪鬼は操作が大変だが、それでも他のキャラで本気のⅤ豪鬼を相手に勝てるかと考えると、皆がガチなら自分でⅤ豪鬼を選んで少し練習する方が分が良いはずなんだ。同様の理由でカプエス2はA山崎ブラベガがラクという判断になった。
けどそれが成立するのは店で100円でももらえるから勝ち負けが金銭的な損得につながって、だから勝つともらえるならラクに勝つ方に流れる動力があるんだけど、家でひとりでPS2で遊ぶにはもうちょっと趣味としての深みが必要だとも思う。
そう、19歳の頃に絡んだストIIプレイヤーの先輩たちはストIIの中に趣味と競技のせめぎ合いがあったんだよな。趣味として楽しみたいが、台は共有で相手の事は変えられない。そこに話が通じて柔軟性があるから、コンピュータ相手の台ではなく人同士の輪という軍団の意味もあったのだろう。
パチスロ店の人は接客を機械に任せて、問題が起こると台の入れ替えで対処する。それはゲーセンも格闘ゲームも同じで、どれほどの新台が出ては消えたか。
そんな旧台でもお金が入るのならばゲーセン側も稼働できる。当然、負けるカネがあったら幾らでも対戦相手をゲーマーが強くして、同じゲームを高いレベルで楽しめる。
もちろん、それがずっと続くと画面の絵が古いまま運用するから、店が古びて見えてしまうという事が新規顧客の獲得競争でマイナスに働くと考えるオペレータがいることも理解は出来る。
ただ、対戦格闘ゲームの顧客心理って、パチスロよりももっと訳の分からないものなのよ。その辺の事情はやっぱり膝をついて話すとかラーメン屋で肩を並べて話すとか、理不尽でも思いのたけを聞き出さないと分からないもので、それが非論理でも何とかしようとする力が働くのは、やっぱそれで100円玉がまた儲かるからなのだよな。
やっぱり今の俺はゲーセンの台に入れる100円玉も惜しいような金銭感覚になった貧乏退職者なのだなぁと、あらためてしみじみと思い知る。大学というと学問をするところという体は取っているが、町の人が期待するのは落とすお金の多寡の問題。カネを落とせば専門学校でも大学より偉いと担がれるし、出すカネが無ければダメなのよ。
けどまあ、俺の今の実際は建前であるかもだが、大学の学問それそのものに対する興味関心とか好奇心であって、繁華街に遊びに行って本当にそんなものがあるのかと思うと、いやそれでも東京の利便性の上でしか成り立たないものはそれはそれであるだろうけど、学問ってもっと静かなものではないかと思うと、地方の国立大学よりも東大京大とか最近の事例では阪大からノーベル賞が出るのが反対に不思議になって来るのよ。
ゲーム強いのも繁華街が中心で、自宅でPS2で独りゲーム研究なんてのより、現場は都会のゲーセンで研究と言ってもコミュでの情報交換が中心という考え方もあるよなぁと。
そうすると、やっぱ今の俺は熱量がちょっと足りてないんだろうなとも思うんよ。
まあそれでも、いま狭い世界とは言え世界一強いA山崎ブラベガくらいは触って置いたって話が偉く長くなりましたが、ウチのラボからは以上です。