努力は実る。ある意味で客観つまり他者観察からはそうかもしれない。
俺はストIIのチャンピオンではあるが、公式戦としてはストIIターボ(ストII、ダッシュ、ターボとアーケードでは3つ目)まで来て国技館’93の予選を取った。
楽しく遊んでいたのは何度も書いているかもだが、家でメシが出て爺さんから両親に内緒でもらっていた小遣いで遊んでいたからだ。しかし、公式戦の本戦で負けたときには期待してくれていた両親に負けた報告と詫びの電話を入れた。
「そうか、郷介君の甲子園は終わったんやね」母親は言った。泣いていた。
時は流れ、家にパソコンを持ち、インターネットにつないだ俺はストIIの後続作品であるストZERO3を遊ぶ仲間をたくさん作った。社会心理学とかペルソナ(ゲーム作品ではなく心理学の用語的な用法で)というと容易いが、人が集まって会話して一緒にゲームする中で役割が決まり、俺はZナッシュのカーメンさんになった。
思えば勝手な意見を言う人が多かったが、そのそれぞれのワガママを互いに受け入れることでコミュが成立して、身内対戦や馴れ合い対戦を繰り返していた。
その中でも、というかその外でゲームを勝手に遊ぶコミュの部外者だがストZERO3をする人をコミュの中で研究して打ち負かすのがコミュの理念であった。しかしまあ、コミュの外の人はバカではないのでほどよく負ければまた明日も明後日もコミュの人はゲーセンに来て、そして周囲の飲食店でもオフ会でお金を落とすので、適当に遊んでいたのだろうなと思う。
その頃から、俺が最近までずっとやっているカプエス2にもオリコンと呼ばれる要素がある。ストZERO2から入った技で、ボタンを同時押しすると無敵になって、全ての技がコンボとしてつながる。専門化しすぎて難しくなったストIIの後続作品に攻略のアンチテーゼとして「簡単に勝てるように」作られたらしい。
確かにストZERO2のオリコンは何でもつながったが、結局そのために対戦は体力ゲージの減らし合いから体力ゲージを一気に奪うオリコンゲージ(スパコンゲージ)のため合いに戦略変化して、簡単には勝たしてもらえない対戦がもっと絶望的になった。
ZERO3勢もストIIが懐かしいのだ。だがストIIは下火でキャラ差は旧態依然として、似たように遊べて新規客がいるストZERO3で弱い者いじめというか、プレステでストZERO3から参戦というプレイヤーを先輩ごっこで育てた気分になるコミュで一番人気がウメハラ、次がオオヌキだったのだ。
色々なキャラがいて、組み合わせの数だけ戦略性がある、対戦格闘というのはそういうジャンルだが、オリコンには一定の威力最大ルートがある。適当に遊んでいるようで、大会などの場面でオリコンをキッチリ決め切る練習をしたものが勝っていた。
もちろん、オリコンを練習して上手くなりその結果勝ったのだから努力は実ったのだろう。大筋で合意できる。ただ、後追いで大会後にオリコンを練習したものの捌け口がどこにもなく、オリコンを相手にZ-ISMなどで相手するものは居なくなり、ひとつのゲームでZとVの住み分けが出来て行った。
この事情を分かった上で、俺はオリコンを練習することにした。それも家庭用で。
もちろん、出来るようにはなってきたが、そこにストIIの対戦の駆け引きとしての面白さはほとんどない。逃げてゲージを溜め、一触即発のゲージ満タン状態で博打1回であとは個人競技のようなゲーム性だ。
完全な個人競技であるSTGには何も文句が無いし、相応の努力はしたし、超えられない壁があることも分かるし、だから序列に納得がいって受け入れている。
しかしオリコンを練習しても、勝負の決め手はコンボが決まるかの一点に集約されるわけではなく、様々の要因がある。その中で、難しいと感じたコンボの練習は上位陣にとって「出来て当たり前」なのが辛い。出来ると上手いと褒められるものではなく、出来て当たり前で失敗すると敗色濃厚で、その上でジャンケンのような運とそれをモノにするための反射神経トレーニングのような事をしていて、何故にそこまでと思うその大会には高額賞金が賭けられて、しかし俺が思うに仕事としてはやった分もらえるわけではなく勝たないと一文ももらえないわけで、バイトより割に合わない労働に思えた。
思えば爺さんの小遣いで遊んでいた頃は勝てば実力負ければ運のご都合主義な性格で、負けてカネを入れても勝敗をキッチリと勘定せず、一度でも勝てば勝ちだった。
しかし勝率を出し、勝ってもゲーム台に入れられた100円ないし50円はもらえるわけでもなく、負けると強い自責思考にさいなまれ、そしてその敗因を分析することを怠って、日々の努力とコンピュータ戦やオリコンの練習をしていた。
そのへんを自分でメンタルトレーニングしていくと、ただ自責思考が強くなっているだけで、コンボの練習以外何か強くなった要素はあるのかというと、ゲージためで動きが消極的となり、それでも一般的なレベルには相手の攻めをいなして勝てるのだけど、大会レベルになると腕の天井もあって、巷で遊んでいる誰しもが大会上位レベルの動きをビデオ研究などでしていて、自分が研究不足でビリになったような気分がしていた。
それは厳しい勝ち抜き制度で負けたものが辞めていく中で残ったものだから、サバイバルとしては今まで続けていて勝ち組なのかもしれないが、バトルロイヤルで次に死ぬのは自分なのだろうなというような恐怖心すら抱いていた。昔勝っていた相手に負け出してからだ。
ゲームが楽しく、楽しく遊べるゲームでお金がもらえたら最高だろうなと思っていたが、ゲームで食う道には行けず、お金を他の方法で稼いでから余暇をゲームに当てた。その中でお金が惜しくなり、払わないで遊ぶゲームにはスリルも無く、また仕事のようにお金がもらえるわけでもなく、経済的な無価値観すらゲームに対して抱きだした。
オリコンが決まるようになったという意味では、俺の努力もどこかは実っている。しかしそれがもっと大きな結果につながるかというと、何にもなっていないし、大体からして博打のようなゲーム性に必勝があることが奇跡的に思えて研究対象としたはずが、難しいオリコンを練習して威力が上がって威力の差が期待値の差となって勝つって事に不思議は最早ないし、それに不思議だった昔の試合を今の目で映像としてみると、そこに既に不思議はない。
まあ、俺の観察眼としても努力は実っていて、博打の中の心理や損得を深く読み解いて、行動が合理的になり、間違いなく昔よりは強いはずなんだ。ただ、その中でも年とともに来るものか、はなたま飽きから来る練習量の低下か、腕の落ちた部分もある。
そんな折に勝っている彼らは本当に楽しいのかと問うと、まあ楽しいのだろうけど、楽しみながらも勘定はしていて、損得面で何らか得をしているものだけが長く続けられるのだろうなとは思う。楽しいから、続けて、お金を払い続けているという人は俺の目からはカモにされているように見えるようになった。
なんだか、その人間模様の一端に人騙しの後ろ暗さや背筋が凍るような寒さを感じるのである。ストIIや麻雀を辞めたように、カプエス2も将棋ソフトの研究も、やはり根底にあるのは勝負事とその奥義にまつわる人騙しであって、あんなに憧れたあの人も、尊敬していたあの人も、みんな勝負のために嘘をついて騙しながら、寒気のするような勝負に打ち勝つためにどこか俺からしたら嫌々になる練習ってやつを仕事のようにやっている。楽しそうな表情すら、本心なのか作り笑いなのか分からなくなる。
ああ、ゲーセンでもカネ入れてゲーム機も買って、攻略本まで買う。良いお客さんだったのだろうなと振り返る。強くなったらそれはそれで楽しいが、ストIIの頃ほど夢中で遊んだかというと、いや夢中で遊んだが研究量は手癖でも勝てた分だけ研究不足の古参だったとろうと思うんだ。
いまいちど、底意地でもういちど研究しなおしてやろうかとは思っている。そもそも勝負とは何なのか、その争点は何処にあるって政治家みたいだけど、よくある身内ルールを決めて縛っているものは何だろうと考えると、最初に書いたように社会心理やペルソナの側面がある。
いつからか、俺は皆がいちばん強いということに同意している強キャラを取る「ときど」のような立ち位置になったのかもなと思う。そしてそれを裏打ちするために努力を自らに強いて、重い十字架を背負ってゲームに望んでいるような気がするんだ。
つまり客観的には努力して試合として勝っていても、しなくていい頑張りのさせられ感としては一番の負け役キャラなのではないかという所。言いたいことはそれだけだ!