ペンネームを使う意味がやっとちゃんと分かったのだ

「作家は偉い」と思っているので、文章は拙いかもだが実名で書いている。

しかし、小説はペンネームで書くのが普通だし、ネットでハンドルネームを使う。なんでなんだろうな、みんなそうするから自分も従うって程度の意味合いなら分かるけど、良いことや正しいと思うことを書くなら実名でも良いんじゃないかって思ってた。

そして、書いているうちに自分がやがて読んだ人から理解されて、いつからか自分の依代が出来ている感覚になってきたんだ。読んだ人が「なるほど、こう言えば偉いねんな」と思った文言を自らの口から読み上げて発することで、良い言葉というのは書き手である俺のものではなくその人の言葉となる。

つまり、俺は良い年なのにゲームが好きでゲームの戦略を深く考えたり、ゲームをすることに社会的意義をこじつけて「ゲームするのも悪くないんじゃないか」という言論を打ち立てていくと、ゲームそのものの社会的認知も変わってきて、昔のように「ゲームするなんて」とは言われなくなった。それにともなって、ゲームばかりしていた人がプロゲーマーになったり、ゲーム解説者がブログの文言をマイクで怒鳴ったりとして、自分が影のような、依代に付く狐のような存在になった感じがしたんだ。

そうすると書いてる方としては自分が一番偉くなるとか儲かるとかでないのは面白くないので、ちょっと馬鹿に見える文言とか間違ったことを吹き込むというイタズラをするようになった。それはそれで上手くいくと面白いんだけど、その書き手である自分のブログが実名なのってどうよ?となったわけだ←イマココ

学校の先生は実名で本当である教科書にもとづいて生徒にモノを教える。

だけど物書きなんてのは、本当と嘘をごちゃまぜにして読ませるものだから、読んだ人が「なるほどその通りだ」と思うように上手く騙せている状態なら実名でも良いかもだけど、間違いを指摘されたり嘘を見破った人間が反旗を翻すということも考えられるので予防策としてペンネームを使うんだなと。

その昔に感化されて尊敬していた作家さんがアマゾンのレビューで見事に正論で論破されていて、だけどそのレビューは人気があるわけでなくて、ファンの「面白かった」ってレビューもいっぱいついていて「ああ、俺は少なくとも騙されなくなったのだな」とは思ったものの「読まして騙す」なんて悪いことを最初から企んでいるとしたら。それはその人のいつからなんだろう。子供の頃は無垢なのが勉強してそうなったのか、邪悪な子供だったのか。

でも、なんにせよ「間違っているな」と思っても、それを読んで真に受けている人間全部に間違いを正す教えを授けるなんてことは有り得ないので、そっとしておくことにした。日本が戦争に負けてから学校で歴史が教えられて、国民は長らく騙されてきてそれらが行き渡るのに50年かかった。子供向けの童話を書いて読ませて育たないようにして自分たちが甘い蜜を吸うってのを世代をまたいでやってきた人がいるんだなと。

映画「ショーシャンクの空に」を観て感動したら、その脚本の原典にあたる巌窟王が江戸時代に和訳されたものであるということを知って、自分はまだまだ与えられ読まされる側にしか立てていない気がしたよ。このブログでも読んでくれる人はいる。

だけど、正しいことを教えて騙されている人を解き放つのは騙して甘い蜜を吸うよりずっと簡単で意味としては損をしてしまうことなんだって最近になって身にしみて分かったんだ。

カルドセプトのレベルアップステージやってます

カルドセプトのレベルアップステージをやってます。

10面あるゲームで全クリア後1面ごとにコンピュータにハンデを与えて10段階まで楽しめるようになっています。10面*(ノーマル+ハンデ10)で110面。

ハンデ6まではキャラの会話とストーリーが変わるので、全部やってます。

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ハンデ10は狭い序盤ほど難しいと言われているのでデュナンとダムウッドを制覇。

噂が真相なら残りは消化試合になるはず。(でもまあ、やってみないとね)

仕事辞めても昼間っからゲームするのには心理的な抵抗があって、昼間は家でもパソコンで何かして夕食済んでからゲームってサイクルだったけど、なんか最近は色々と吹っ切れてゲームに没頭できるようになってきました。生活に慣れたのかな。

世界はヒトを含むのでヒトひとりが世界を内包的に理解するということはあり得ない

ヒトは世界を理解し得ないが何らかの記憶をするために世界を理解可能な形まで単純化して分類して思考を形作っている。だから、より深い理解をすることでそれ以前の単純化されたモデルを破壊することが誤解を解くということにつながってゆく。

従って深い理解をすると誤解は解けるのだが、より深い理解が出来るかというと分解能が上がった分情報量は増えるので深い理解というのは相対的にそれまでより狭くなる。

その昔に乱読した本に「物理学には若い閃きが必要とされるが生物学なんかは歳を重ねて学習を繰り返すと一定の成果が上がる」と読んだのをどこかで覚えていて、39歳という節目で計算機科学ばっかりやってないで生物でもやったほうが後々面白いかもなと考えるようになった。

それも分子生物学とか、すごそうな事をやるのではなく中学の理科の漫画本を買ってきて誰でも覚えてる師管と道管の役割とか、イネとユリが同じ分類とか、そういうやさしいことをくまなくおさらいしている。

そういうやさしいことを繰り返すうちにどこかで学んだ狭くて深い部分同士がやや単純化されて結びつきを持つようになって「今までこう考えていたけど違うな」という内面の変化を感じるようになってきた。

小学生でも中学生でも勉強すれば草花や昆虫はある程度性質を理解できる。だけど樹木はもう少し難しい。森なんてなおのこと難しい。それなのに林業という仕事はあるわけで、分かる範囲のことの組み合わせで自然をコントロールしていくって事は出来る。

それが何故なのか良く分かると、人間社会とか街なんてものが包括的に理解されうるなんてことは有り得ない。有り得ると思っているのは人間を単純化しているから。

物理はあきらめた。化学は錬金術なんて幻想だったんだと幻滅すると同時に錬金術があれば金の価格が安くなるだけで金持ちになるのは長い歴史から考えて一瞬にあたる数ヶ月とか十数年くらいの一部の人だけで、自分がそうなるとも考えられない。生物はやったところで俺の住む町にはあんまり関係ないかもだけど、計算機科学の知が集結しているシリコンバレーで働くのと田舎に行って土と草花に触れるのどちらが容易いか考えると、生物をおさらいしておくってのは人生の選択肢を広げる効果があるかなと。

まあ、分かるなんて有り得ないというのが真理でも「何でも分かる」という嘘のほうが売れる。大学を目指すのも電子辞書を買うのも、それがあれば何でも分かると考えているからだからな。


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