海の近くに住みたいなとある時にコータローは言っていた

 俺はコータローの事はそんなに仲の良い友人だとは思っていなかった。

 小学校で塾が同じだったという関係だが、親の事情でもっと厳しい塾に移された時にコータローの親も情報を聞きつけてまた同じ塾になり同じ中学、高校で特に趣味が合うわけでもないのに絡んでくる鬱陶しい変なやつだと思っていた。

 しかし、コータローは普通のやつだ。変なのは俺のほうで、コータローは周りをよく見ていて親の言いつけもほどよく守り、特に大きな夢があるわけでもなくそこそこの成績でどこかに雇ってもらって会社員になりたいと学生の頃から考えていたかもしれない。

 それからコータローは結婚する時も俺を式に呼んでくれることはなく、別々の道をあゆんでいったわけだが、将来の夢など持っていなかったコータローがある時「将来は海の近くに住みたいな」と言っていた。海の近くで何の仕事をするとかは聞かなかったが、その理由は「海の近くってさ、魚が新鮮でスーパーで適当に刺し身とか買ってもすごく美味しくて安いんだぜ?」なるほど、もっと稼いで美味いもんを食おうとか野心的な感じでなく給料がそのままでも海の近くのスーパーなら魚が安いと。コータローらしいなとその時は思った。

 それを今思い出すとコータローが今ここにないものの話などするのは本当に珍しいことだったなと振り返る。そう、コータローは俺のことを夢を聞いてくれる相手だと思ったかもしれない。しかし結婚式には呼んでくれなかった。

 そんなことを最近スーパーに買い物に行って思い出した。奈良には海はないが、鮮魚の保存技術は年々進歩している。海の近くでなくともアメリカの海岸沿いの範囲より日本の内陸の方が海にずっと近いわけで、奈良でもスーパーの刺し身は安くて旨い。

 ただ、安いからブリの塩焼きにしてもカツオのたたきにしてもパックに詰められている量が居酒屋の一人前よりずっと多い。

 そういえば俺が会社員になったとき、コータローは「居酒屋に連れて行ってくれ」とスーツを着て遊びに来たな。形だけでも仕事帰りに居酒屋に寄るサラリーマンに憧れていたのだろう。

 家に帰ると冷蔵庫にビールを入れるのを忘れていて、冷蔵庫の隣に積んだダンボールからぬるいビールを取って魚と一緒に買った焼き鳥をレンジで温める。夕食は魚と焼鳥と揚げ出し豆腐だ。

頁作氏は何故はてなダイアリーの更新をやめたのか

俺はゲーム好きということで中学高校とオタ系コミュニティに属しながら軽音部とも交流を持ちバレーボール部の幽霊部員をかけもちながら、オタ系コミュからはよく仲間はずれを喰らっていた。

何故かと言うとゲーム機は持っているがオタ系コミュはマイビデオマイテレビでアニメを観る文化があって、アニメの話に付いていけないことをストIIの対戦で負けた奴らが面白がってゲーセンでは俺が勝つけどバスや電車のトークで仲間外れを喰らう日々だった。

そんな彼らとは卒業後も少しは情報交換があったが20歳を過ぎたあたりから接することはなく、俺はゲーマーコミュに属していく。ゲーマーコミュではゲームの話しかしないので問題なかったが、カプエス2の公式全国大会が終わった後はゲーム中心の付き合いではなく飯食って談義とかが増えてそこでやっぱりアニメの話が出て分からなかった。

同時に俺はインターネッターなので文字になっていて読める情報はくまなく仕入れた。アニオタの頁作氏がゲームに興味を持っていて日記をつけている。俺はゲームの話でそれを見つけたわけだが、アニメについても語られていてその話だけは読んでいた。

毎日頁作氏の日記を読んでいるとやがて同化がはじまる。頁作氏に興味があるので同じものを買ってみるようになった。もしかしたら俺のブログを読んで同じものを買っている人もどこかにいるかもしれないけど。俺は頁作氏と同じものを買い、違う感想を日記に書く。その情報は新しくて面白かった。インスタとかも出た瞬間に頁作氏から教えてもらえた。それでもアニメの話だけは分からなかった。

頁作氏が日記を書かなくなってから俺はアニメを見るようになった。ストレージ系サービスでついて行けなかったのを覚えている古い作品から入っていったら、どうやらキャラのやり取りのモノマネなど、すごく幼稚な話しかしていないのに固有名詞や映像が分からないから分からなかっただけであったことが分かった。

それが分かると、もっと難しい話をする相手が欲しくなり、オタク系コミュから学歴系コミュに自分の学歴をバカにされながらも果敢に絡むようになった。その話はまた別の機会に。

それよりも、新しいアニメというのは実写ドラマなどより内容的にも映像的にも少し先を行っていることが分かった。面白いアニメがあると似たものが出回っているだけなので数本押さえればそんなに貪欲に全部見なくても満足できる。

この「アニメの話にはついていけない」という10代からの悩みと実際に見た後の彼らの幼稚さに対する落胆とどこか逆恨み的な感情は今までこのブログには書いてこなかったことだ。それを通り過ぎて俺はどんどん孤独になって自己肯定感が失われていった。

アニメがそうであったように、俺の知らないもっと新しくて面白いことをどこかでだれかに出し抜かれているのではないかというような恐怖が俺をネットでの情報収集に駆り立てさせる。

最近じゃ、そんなものは無いと考えて安心するようになってきた。

 

映画「カーズ」と「思い出のマーニー」を見た

金曜ロードショーと金曜プレミアム、かぶせてきやがったな!

カーズはもっと子供向けかと思っていたけど大人の哀愁を感じる映画だった。

マーニーはな・・・。もうええんじゃ。

マクロスデルタの第3話を先に見ていて、見ている時はテンション上がったけど、話が終わって4話の予告を見て再生が止まった時に「そんなに都合のいい話は無いよな」という喪失感を感じていたんだけど、カーズはな。見ている途中で何度か「退屈だな」と思いながらも見終わった後に戻ってきた現実の見え方が変わる映画特有のアレだ。

都会に行くととかく人との交流は頻繁に生まれるけど、満員電車や横断歩道の人混みの中でも孤独を感じるように、多いがゆえの「その他大勢感」があるよな。その中で主人公格になってみたところで、他の人間はどこか役としてやっている感もある。

そのへん、辺鄙なところで本当の信頼関係が生まれるってのもな。俺の人生はまだ話の途中ではあるけどさ、主役になりきって映画を見ているってのは子供の頃から変わらない。あるんだろうか、俺に続きのストーリが。どうなんだろうな。金曜ロードショーでなくて映画館でやっていた時期にこの映画を見ていたら在り方が少しは変わったかもなと思った。

やっぱね、映画はそのうちテレビでやるだろとかDVDやブルーレイになるだろとか思わずにタイムリーに映画館でみるのが良いもんだ。情報は時間とともに価値が変化する。

ただ、カーズの場合は時間が流れて風化し忘れられた情報の価値を思い出させる話なので、そのときに見ていたら分からなかったかもだ。

 


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