もう半年も経ったのか・・・

今年の3月9日に出来なくて「来年こそは!」と誓ったこと。

忘れずに続けてきた。

まだあと3ヶ月以上あるけれど、形になってきたか。昔はもっとチョロそうだとナメていたことが近づくほどに遠い。そのもっと昔は自分には無理だと最初から諦めていたから、ナメていた時の方が調子が良いわけなんだけどさ。気付いたら5年とか過ぎてて成長していない自分がいて。ある人からはウサギとカメはカメが勝つけどあんたはカタツムリだと言われたほどの成長速度。

それでも出来るのは努力の方向性としてさ、苦手なことかもしれないけど、この方向なら確実に努力が実ると思えるから。何度もあきらめながらも蓄積を肌で感じてきた。

カタツムリだって進んでいるのかもしれない。こらそこ塩振らない。

そうあり続けることを拒む自分がいた

 プログラマーになりたいと思い始めたのは子供の頃の何時だったかはっきり覚えていないけど、なってみて「そうあり続けること」を拒む自分がいる。ギターだってそうだし、将棋だってそうだ。ギターも自在に弾けるようになるとレコードを買うカネが浮きそうだとか、将棋をやると頭に良いとか、副次的な手段としてドラクエで言うと「取り敢えずレベル上げしとけば後がラクでしょ」みたいな感覚。

だけど俺には王様も竜王もローラ姫もいない。無目的でも鍛錬しておくことが何となく好きだからそうしていて、ウィザードリィなんかはワードナを倒した後もダンジョンに潜ってカシナートの剣やムラマサを何本も集めて蓄財していた。

たぶんだけど、蓄財したいんだろうな。お金があると出来ることが増える。日蓮は「倉の財より身の財」と説いたそうだが、俺は両方あると安心だと思う。旅よりも家のほうが好きだ。10代は学校の夏期講習をサボって夏休みの旅に出たりしたけどさ。

んでまあ、俺の目的は蓄財と分かる前にキルケゴールにたどり着いた。商人の子、子供の頃に厳しく勉強させられた、親が実は悪いと知る、自責の念に苛まれて恋人と別れる、別れてから大切に思う。ありふれてるけど、似てるとこあるな。

俺の目的はたぶん何もしないこと。何かするのは「そうしておけばいつか何もしなくて良くなるから」なんだよな。これがしてたい、やり続けていたいてのが見つからない。

キルケゴールは「一生やりたい事」を持つことが実存だと説いた。

それは俺の持ってる哲学の本の中盤あたりなので、近代思想ってのはもっとあるんだろう。最初は何のことかさっぱり分からないで読んだけど、自分なりに生きてきてやっとキルケゴールまで来たんだなと。

ブログだけはずっと書いてるな。キルケゴールは昔の恋人に著作権を全部渡して死んだらしいけど、それも悲しい生き方やで。

なんか「世界の中心で、愛をさけぶ」が死んだ恋人と別れて新しい恋にみたいなあらすじで映画見てみたいけど2時間は今ちょっとだるいわ。dTVで観ようとして広告の「秒速5センチメートル」も面白そうだった。

よし、鬱展開からは抜け出した。稼いだ分を全部使う労働と消費のサイクルからは抜け出したけど、支出を押さえたらやりがいがなくなって仕事減らしたんだよな。その分楽になって考える時間も増えた。頼まれたプログラムを考えてるのと自分の生き方に向き合うのとでは考えてることがまるで違うから、考えてる時間としては減ってるかもだけど、何も考えないでおくことなんて人間出来ないんだから、寝ても覚めても24時間考える中で、着実に誰かのためとか何かのためじゃなくて自分のために考える。

その自分ってやつと向き合うのが哲学で、それが一番好きな科目だったじゃないか。

ギプスを外して包帯だけになった

まだ拳を握ると形が少しイビツなのでギプスのクッションを丸めたものを手に握って包帯で巻いて骨が自然に固まるまで固定してもらった。なんだか手のひらに猫の肉球が付いたような感覚でひとりで「にくきゅー!」と喜んでいる。

 

社会に対して批判をするということは間接的に社会の構成員である人間を批判するってことになるから、それが遠くて関係がないと思って失うものを持たずに批判できるジャーナリストって言うなれば瀬戸際なんですよね。

中立は善から見れば悪で悪から見れば善で、真の正義とは義のバランスを取る役割を示すわけですが、卵がそのままの形ではテーブルに立たないように、絶対的にバランスの取れた中立というポイントは掴めず、ちょっと長文を書いてみたら自滅的な内容になり「ああ。今の俺は人に批判とか出来る立場じゃねーわ」と思いました。

卵で言うと立った形でなく寝ている形でテーブルを転がるわけで、それこそが世界のありふれた正しい形であり、現状と思想が違っている時は間違っているのは思想の方であり、理想を掲げて改革を謳うのは現実に対する正しい処置の出来ない弱者なんよな。

ただ、自身が強くて弱い者の味方であれというのは、個で考えると強いのかもだけど後ろ盾になっている味方が弱いわけで、団体戦という視座に就くとやはり弱者なんだよ。

そういう意味では強いものと弱いものに分けて考えて強いものが弱いものを守るべきって考え方と、そもそも人に先天的な強弱の差はさほどなく弱いものは強くなるように励むべきって考え方があって、しかし現実には強いものが弱いものをいじめているわけで、強い方を弱めようとする考え方は力が強くて頭が弱い者にしか通じないので、弱い方を強めようって考え方のほうが理にかなっているんじゃないのかなと。

まあ、世の中に格差やいじめがあってもそのままでも良いじゃないかって考え方ももちろんあると思うんですけどね。「あらためる方向としては」ですよ。


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