安楽、気楽、快楽。頭はラクをするためにある?

「豚もおだてりゃ木に登る」というが、振り返るとプログラマーとしてバリバリやっていた頃の自分は完全に「おだてられた豚」だった。様々な劣等感を持ち、仕事を頑張る姿を演じている自分に新しいイメージを上塗りして内面的な劣等感を隠そうとしていた。だからおだてには弱かった。

そんな俺に助言を投げかけてくれたのは受験や就職に成功したものの、世間から認められている企業の内実を知って失望し、退職しておちぶれているように見えた友人だった。「頭ってのはなぁ、ラクをするためにあるんだ。お前が会社で働いて昼休みに買っている弁当な。あの弁当屋の仕事はお前の仕事よりずっとラクで儲かってるんだぞ?それに最近カネブンバラ撒いてモテているらしいが、そんな女に貢ぐカネがあるんならコンビニでエロ本買ってシコレや。射精しちゃったらどうってことない女だろ?」と。

その時には友人が落ちぶれてやさぐれて妬んで皮肉を言っているのだと思って流した。しかしその言葉がはいつまでも頭の片隅に残り、自分が賢いのかバカなのか、自分で決められず賢いと思って尊敬していた友人が落ちぶれてそんな言葉を吐いただけだとも思えない時もあった。

それで、考えていると「ラク」の言葉の意味がだんだん分からなくなってきた。英語にすると容易を意味するイージーと快適を意味するコンフォートの両方の意味をラクという言葉は持っている。何もしないのは楽だけど、将来のことを考えたりするとラクすることは後のためにならないと子供の頃から信じてきていた。本当に若い時に苦労したほうが後々楽なのか、それは未来が遠すぎて何とも言えない。人生万事塞翁が馬という言葉だってあるではないか。

ふと料理をするのは何のためだろうと考えた。美味しいものを食べるのは快楽だろうか。快楽のために食べる前に調理という仕事をしたほうがラクなのか。なんとなく昼飯に選んだコンビニの肉うどんだが、これをレンジせずに食うやつはいない。マクドナルドのポテトが冷めると食べるのが苦になることがあるが、そうすると美味いものを食うのはマズいよりラクだし、やはり調理の手間を惜しむと食べること自体が苦になるのだという結論にたどり着いた。満腹すると美味いものを食い続けることだって出来ない。

テレビゲームは楽しいかと考えた時に俺は音楽が好きというか音楽が嫌いなやつもいないと思うので音楽はみんな好きだがケータイで音を消してゲームをする人がいるが、俺は音がなくて画面が動くだけのゲームとゲームがなくて音だけなるウォークマンなら音楽の方を取る。

音楽なんてのもその名前に「楽」の文字が入っていてもちろん楽なのだが、演奏するのはけっこう大変な訓練がいる。聴くほうが楽だ。しかし楽器が上手くなったり耳が肥えたりすると下手な音楽を聞くのが苦になり自分でやりたいと思ったりするものだ。そして音楽というのは快と不快の音の流れで快感を想起させる、感情を揺さぶるものだ。どんな音でも同じ調子で鳴り続けていると不快なもので、起伏があるのが良い音楽だといえる。

オンガク・・・いつまでも続くオンガク。坂本龍一の初期のベスト盤に入っていた曲を思い出して探して聴いた。耳に残っているフレーズがあるが、退屈な部分もあり狙って入れた快と不快の波なのかそうでないのかは分からないが、選択肢の少ない頃に繰り返して聴いてそのフレーズしか残っていないということは曲全編を通して好きでないことから、やはりそのフレーズしか良くないのかも知れない。

そうこう考えていると、もともとの「頭はラクをするためにある」という言葉も賢い友人の言葉ではあるが、意味のふわっとした日本語によって幾通りにも意味のとり得る言葉であるから、言葉尻を取って反証を上げてみようなどとするより、伝えたいエッセンスはちゃんと自分なりに消化でき始めていると思うようになった。

たぶんだけど、答えから先に書いてしまったように当時の俺が「おだてられた豚」であることを指摘していたのだろうが、褒める人がバカを使うためにバカを褒めるのだとしたら、そういう人から褒められたいならバカになるべきであり、バカにされたら褒められたと思うようなひねくれた精神を持ち合わせないとラクをしていくことは難しい。

「頭が良い」にも色々あって、繰り返しになるが「ふわっとした意味しか示せない日本語」ゆえに何をどう考えてどう動くかの繰り返しの中で、まず苦から上手く逃れ、快を自ずから作り出せる。そういう方向を見失わずに「何となくそう言われているから」みたいな基準は全てバッサリ行けるようになりたい。

謹んで新年お祝い申し上げます

謹しみながら祝うって難しいよね。ちょっと祝うの?

くしゃみで目が覚めてみかんとどん兵衛の天ぷらそばを食べてから生茶を飲み干しテレビを見ていたら解体新書出版にまつわる蘭学の番宣が流れており楽しみだなぁと。

謹んで新年お慶び申し上げますとか、お祝いしますとか、本当は「賀」の文字で謹賀新年をキレイに言いたかったんだけど、正月から辞書ひいて賀の文字の訓読みを調べていたのですが載っていないみたいで、謹賀新年は支那言葉に認定されました。

俺らの世代はテレビの見過ぎはダメって育てられたもので、婚活とかで趣味を聞かれて「テレビ見ます」とかいうと案外と「どんな番組が好きですか?」と話が弾んだりするアラフォー世代なのですがアラフォーとか誤魔化さないで今年40歳ど真ん中になりますよ。39歳の間に結婚したいと思っていたのであと2週間くらいでキセキが起きますように。何を謹んでお祝いしてんだか。むしろ・・・いやあ、新年早々口に出しては行けない暴言をすんでのところで堪えました。

こんな調子ですが本年もよろしくお付き合いお願いします。楽しいなぁ。

いや、蘭学の流れからするとハッピーニューイヤーでしょ。ことよろ、どう訳そう。ゴソゴソ(グーグル翻訳をこっそり取り出す音)・・・サンキューアゲインディスイヤー!うーん、このニュアンスの端折られた感じの訳は好かんなぁ。蘭学蘭学っと。

性善説を信じて上手く回っていた

「人間は生まれつき善であり、育ちの中で悪に染まる」という考え方の性善説(せいぜんせつ)と、反対に「人間は生まれつき悪であり、善に育てなければならない」という考え方の性悪説(せいあくせつ)というのがある。性悪説を「しょうわるせつ」と読んでしまった友人がいるが、彼は彼なりに「しょうわる」という国語を知っていて、倫理は知らないというだけの話であるが「しょうわる」と「せいぜんせつ」はたまたま漢字がかぶっているだけで相関関係があるわけではない。「せいあくせつ」は全て音読みであるので中国語に近く美しい日本語ではない感じもするのだが、ここでそこから蒸し返しても仕方がないので話を次に進める。

個人的には善と悪の定義は宗教倫理によって定まり、人間の素行は本能的な部分があるにせよ親の振る舞いを真似てゆくところから後天的に獲得する要素のほうが多く、生まれながら何にも染まっていない人間というのを作るとすると自然に放して自活させるか監禁するくらいしか無いと思うので、性善説性悪説もどちらも極論すると間違っているわけだが、古来そう考えられていたという話。

ところが、それを学校で学んだ折に自分は難関中学の出身であり、厳しい受験に耐えていたので善人が多く、素行の悪いものは退学処分されていくので何となく性善説を信じてしまった。今から思えば間違っていたのであるが当時はそこまでの理解は無かった。

それから、自分の望む道にまっすぐ進めたかというと人生の寄り道をして、色々な人間に関わるそのそれぞれを皆、性善説的に捉えていたので本当に悲惨な目にあった。

例えばの話になるが、藤田というばくち打ちとの出会いで俺は勝負事を色々と学ぶのだが、ストリートファイター系のゲームだけは自分のほうが自信があって、しかしばくち打ちというのは負けると分かるとナメられたくなくて勝負を仕掛けない。藤田のバクチ仲間で腕に覚えのあるものと勝負をさせられて横からいちゃもんを付けられるという日々が続いた。

ある時に餓狼伝説スペシャルの話になって、当時の俺の持ちキャラはダックキングというオレンジのパーカーにモヒカンのダンサーを使っていて、負けた時に「このキャラ辛いよ」と愚痴をこぼした。それを見た藤田は「ダック強くない?ジャンプ速いし超必殺技使えるし永久コンボあるし」と横からまくし立ててくる。藤田の使う不知火舞には俺はダックで勝てるので、その時は藤田はこう考えていると考えた。

まず、藤田は不知火舞でダックに負けるのはダックが舞に有利であるからで俺が藤田に腕で勝っているというのは認めたくない。藤田のプライドの問題を今の別の勝負にかこつけて語っているのだと。

ここで客観的な指標を上げておくと、5万部出ている商業誌のゲーメストでは餓狼伝説スペシャルはキムカッファン、不知火舞、ビリーカーンの順にトップ3であり、ダックキングはダイアグラム最下位である。ゲーメストによると不知火舞対ダックキングも舞有利だ。しかし俺が何故それを知りながら最下位のダックを選んでいたかというと、自分の腕があればその不利の全てを跳ね返して勝てるという自信と勝った理由をキャラのせいにされたくないというメンタルの弱さだった。

俺の最近の持ちキャラはテリーとキムカッファンになった。このあたりのキャラなら現役の韓国のプレイヤーとネット対戦をしても勝てる。まあ、ゲームのルールが最近のものよりシンプルで腕前にデジタルの天井があるため、両者の動きは極まって勝敗は読み合いというか運というか、それとキャラ相性でほぼ決まる。ダックキングは弱くてやめた。

そんな最近になっても藤田の言葉は心の片隅にある。今思うと藤田はもともと京都の人間なので性悪説的に逆言葉のなかで育った人間なのではないかと考えるようにもなった。性善説性悪説かはさておき、京都の人間は意地が悪いというのが通説だ。掛け算のことを九九(くく)と呼ぶのは昔の貴族が農民に計算をしていることを悟られないように掛け算という術を隠し、暗唱する時にいんいちから読まず逆さのくくから読んだ名残が掛け算の暗唱を九九と呼ぶことに残っていると学んだ。

5万部出ている商業誌にダイアグラムが載っているとはいえ、日本の人口は1億人を超えているので、知らない人というのは圧倒的に多い。その中で藤田はこう考えていると考え直した。

ミヤザワくんはダイアグラムを知らない。知らないから弱いキャラを取らせればラクに勝てる。そのためにキムや舞が強いことは隠してダックの長所をならべてダックが強いと考えさせよう。そして、見事に術中にハマってダックを使ってくれている。よし!

そう考えると藤田はとんでもない人間であるように思えるが、性悪説に基づくと自分に正直な人間が本来的に持っている悪意に忠実な人間であるといえる。仕事をせずバクチで暮らしているのだからそれは上手く賢くやっているのだろう。

しかし、性悪説に基づいてものを考えるとなると、今まで自分がしてきたことは全ての論理回路が反転しないと元通りの考え方には戻れない。そこで考えた末に性善説性悪説もない、倫理道徳と生物学的な人間科学と自然科学をすり合わせた考えに至る。

果たして俺は今後の人生において藤田と縁を切って暮らすべきかと考える。既にバクチをやめたことでほぼ付き合いは無いのだが、性善説によるとそれでも藤田という人間は憎まずに罪を憎むべきであり、性悪説に基づくのであれば藤田の悪行をさばくべきである。

そう、このブログではまだ「さばく」までには至らない。藤田はどう考えていたのだろう、ということを考え直すのみなのである。


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