お正月の三日目

ブログとツイッターでは元旦に新年の挨拶をしたものの、SNSを色々とやっているとビールにおせちにカニ寄せ鍋とやっている間にすっかり忘れていた世界があって。二日になってから挨拶というのは何とも気持ちが悪いなと。

子供の頃はおばあちゃんが「ゲン」を気にして靴を下ろすのは大安が良いとか、お客さんに羊羹を切って出すのに三切れは「身が切れる」だからダメとか、戦国時代じゃあるまいし、どうやって身が切れるんだと思ったものですが、まあ昨年は宮司さんが身を切られたりしたので、おばあちゃんごめんなさい、気をつけます。

何というかね、ゲンを担げばミラクルが起きるわでなく、物事は上手く行ったり行かなかったりするものですけど、どっちでもない平坦な生活の中でちょっと気持ちいい時ってあるじゃないですか。ゲンを担ぐってのは、そういう何気ない気持ちよさを維持するおまじないみたいな効果はありますね。

コンビニ飯ばっか食ってたら親父がきなこ餅を作って出してくれたり、ライターのオイルが切れているのを振ってどうにか小さく火がつくのでタバコ吸ってたのを満タンにしてみるとブオッと良く萌えて気持ちよかったり。

前にジッポに給油したの12月16日だから2週間持ったのね。まだ綿にどのくらい染みたら満タンなのか分かっていないので「こぼすよりは」と控えめに給油してんのよ。タバコ1日1箱でも1ヶ月くらい持つらしいから、給油が足りないのか親父も使うから倍減ってんのか。

今日は関西では10チャンネルである読売系で素人の「のど自慢」がありますね。歌唱王だったっけか。番宣で聴いてたら、上手い人いますね。芸能人となると見かけと歌と人脈など色々と揃った人が歌っているので、そうでなく一般審査で歌がやたら上手い人を連れてきているわけだから、本職より上手いと思える人もいるんじゃないかな。役者として歌に感情移入している歌手と「これホンマに俺のための歌や!」思い込んでいる人との熱量の差みたいのもあるとは思うんですけど。

こういう、コメンテーター的なこと言ってみたい年頃なの。

安楽、気楽、快楽。頭はラクをするためにある?

「豚もおだてりゃ木に登る」というが、振り返るとプログラマーとしてバリバリやっていた頃の自分は完全に「おだてられた豚」だった。様々な劣等感を持ち、仕事を頑張る姿を演じている自分に新しいイメージを上塗りして内面的な劣等感を隠そうとしていた。だからおだてには弱かった。

そんな俺に助言を投げかけてくれたのは受験や就職に成功したものの、世間から認められている企業の内実を知って失望し、退職しておちぶれているように見えた友人だった。「頭ってのはなぁ、ラクをするためにあるんだ。お前が会社で働いて昼休みに買っている弁当な。あの弁当屋の仕事はお前の仕事よりずっとラクで儲かってるんだぞ?それに最近カネブンバラ撒いてモテているらしいが、そんな女に貢ぐカネがあるんならコンビニでエロ本買ってシコレや。射精しちゃったらどうってことない女だろ?」と。

その時には友人が落ちぶれてやさぐれて妬んで皮肉を言っているのだと思って流した。しかしその言葉がはいつまでも頭の片隅に残り、自分が賢いのかバカなのか、自分で決められず賢いと思って尊敬していた友人が落ちぶれてそんな言葉を吐いただけだとも思えない時もあった。

それで、考えていると「ラク」の言葉の意味がだんだん分からなくなってきた。英語にすると容易を意味するイージーと快適を意味するコンフォートの両方の意味をラクという言葉は持っている。何もしないのは楽だけど、将来のことを考えたりするとラクすることは後のためにならないと子供の頃から信じてきていた。本当に若い時に苦労したほうが後々楽なのか、それは未来が遠すぎて何とも言えない。人生万事塞翁が馬という言葉だってあるではないか。

ふと料理をするのは何のためだろうと考えた。美味しいものを食べるのは快楽だろうか。快楽のために食べる前に調理という仕事をしたほうがラクなのか。なんとなく昼飯に選んだコンビニの肉うどんだが、これをレンジせずに食うやつはいない。マクドナルドのポテトが冷めると食べるのが苦になることがあるが、そうすると美味いものを食うのはマズいよりラクだし、やはり調理の手間を惜しむと食べること自体が苦になるのだという結論にたどり着いた。満腹すると美味いものを食い続けることだって出来ない。

テレビゲームは楽しいかと考えた時に俺は音楽が好きというか音楽が嫌いなやつもいないと思うので音楽はみんな好きだがケータイで音を消してゲームをする人がいるが、俺は音がなくて画面が動くだけのゲームとゲームがなくて音だけなるウォークマンなら音楽の方を取る。

音楽なんてのもその名前に「楽」の文字が入っていてもちろん楽なのだが、演奏するのはけっこう大変な訓練がいる。聴くほうが楽だ。しかし楽器が上手くなったり耳が肥えたりすると下手な音楽を聞くのが苦になり自分でやりたいと思ったりするものだ。そして音楽というのは快と不快の音の流れで快感を想起させる、感情を揺さぶるものだ。どんな音でも同じ調子で鳴り続けていると不快なもので、起伏があるのが良い音楽だといえる。

オンガク・・・いつまでも続くオンガク。坂本龍一の初期のベスト盤に入っていた曲を思い出して探して聴いた。耳に残っているフレーズがあるが、退屈な部分もあり狙って入れた快と不快の波なのかそうでないのかは分からないが、選択肢の少ない頃に繰り返して聴いてそのフレーズしか残っていないということは曲全編を通して好きでないことから、やはりそのフレーズしか良くないのかも知れない。

そうこう考えていると、もともとの「頭はラクをするためにある」という言葉も賢い友人の言葉ではあるが、意味のふわっとした日本語によって幾通りにも意味のとり得る言葉であるから、言葉尻を取って反証を上げてみようなどとするより、伝えたいエッセンスはちゃんと自分なりに消化でき始めていると思うようになった。

たぶんだけど、答えから先に書いてしまったように当時の俺が「おだてられた豚」であることを指摘していたのだろうが、褒める人がバカを使うためにバカを褒めるのだとしたら、そういう人から褒められたいならバカになるべきであり、バカにされたら褒められたと思うようなひねくれた精神を持ち合わせないとラクをしていくことは難しい。

「頭が良い」にも色々あって、繰り返しになるが「ふわっとした意味しか示せない日本語」ゆえに何をどう考えてどう動くかの繰り返しの中で、まず苦から上手く逃れ、快を自ずから作り出せる。そういう方向を見失わずに「何となくそう言われているから」みたいな基準は全てバッサリ行けるようになりたい。

謹んで新年お祝い申し上げます

謹しみながら祝うって難しいよね。ちょっと祝うの?

くしゃみで目が覚めてみかんとどん兵衛の天ぷらそばを食べてから生茶を飲み干しテレビを見ていたら解体新書出版にまつわる蘭学の番宣が流れており楽しみだなぁと。

謹んで新年お慶び申し上げますとか、お祝いしますとか、本当は「賀」の文字で謹賀新年をキレイに言いたかったんだけど、正月から辞書ひいて賀の文字の訓読みを調べていたのですが載っていないみたいで、謹賀新年は支那言葉に認定されました。

俺らの世代はテレビの見過ぎはダメって育てられたもので、婚活とかで趣味を聞かれて「テレビ見ます」とかいうと案外と「どんな番組が好きですか?」と話が弾んだりするアラフォー世代なのですがアラフォーとか誤魔化さないで今年40歳ど真ん中になりますよ。39歳の間に結婚したいと思っていたのであと2週間くらいでキセキが起きますように。何を謹んでお祝いしてんだか。むしろ・・・いやあ、新年早々口に出しては行けない暴言をすんでのところで堪えました。

こんな調子ですが本年もよろしくお付き合いお願いします。楽しいなぁ。

いや、蘭学の流れからするとハッピーニューイヤーでしょ。ことよろ、どう訳そう。ゴソゴソ(グーグル翻訳をこっそり取り出す音)・・・サンキューアゲインディスイヤー!うーん、このニュアンスの端折られた感じの訳は好かんなぁ。蘭学蘭学っと。


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