もはや発信する意味があるのかも怪しい今日のカプエス2

秋冬になったのでレストラン「サンナオト」のおやつタイムにモンブランを目当てに出かけたら「今日は団体さんが来てケーキセット売り切れです」と。「プリンだったらありますよ」(プリンは今日プッチンプリン食ったんだよ)「プリンも良いんですけど・・・ホットケーキやったらありますか?」「コーヒーと合わせて700円です」「じゃあそれで」

出てきたホットケーキはハチミツと生クリームとアイスクリームと「なんたらシュガー」でトッピングされた見事なインスタ映えだったが撮り忘れた。おいしかった。

ヤンジャン取り始めて4週目。ドロ刑だけ読んであとは暇な時に読もうと積んでおく。たとえば散髪屋に入って古めの漫画雑誌を夢中で読んでいたことなんかはあるし、ゲーセンで対戦に明け暮れていたときもマンガを取る習慣が無かったので友だちの部屋で置いてあるマンガを夢中で読むとかいうこともあった。だから実は俺はゲームするよりマンガ読みたいんじゃね?と思ってみたが、4週間つまり1ヶ月分取ってみるとまたマンガにも飽きてカプエス2熱が上がってきたのである。

今日のチームはC春麗・ガイル・ギース。

春麗のゲージMAXコンボ「コパコパしゃがみ中パンチLV2鳳翼逆キャン大百裂2発止小パン中パンLV1鳳翼ハイジャンプキャンセルジャンプターケットコンボ」てのな。百裂の後の小中鳳翼を大パン鳳翼にして波動入力大パンチもう1回波動小キックで簡単化出来るんだが小中のほうが威力が低くてヒット数が増えるから、GP稼ぎのためになんか無駄に高難度に挑戦してる。LV2鳳翼のケズリもやばい。

ギースのゲージMAXコンボ「めくり中キック立ち小キック2発しゃがみ小パンチしゃがみ中キックデッドリーレイブ9発止小キック大パンチ邪影拳」の鬼減りと比べたら相手の技を読んで当て身投げとか、大局に影響力あんのか疑問視するくらい減ってない。それでも当て身は決めたら「気持ちいい!」ってなるから狙って遊ぶのは面白いんだ。

ギースも春麗もコンボの威力メッチャ高いから、試合という感じがする前に相手を倒してしまうことが多く物足りない。俺がガイルにこだわるのはカプエス2というゲームを遊ぶ中で試合して楽しかった記憶がガイルの試合そのもので、通常技で少しずつ減らしていくから面白いんだろうな。だから春麗とギースでもコンボで一気に倒してしまわず通常技で少しずつ減らしていく戦い方が身についたらもっと楽しめるかも。

あと、実はこのゲーム全キャラやったようでイーグルほとんど使ってないことに気付いた。キャラセレ画面でどこにイーグルいるかスグ分からなかったし。

今日のカプエス2(芸術界と相撲界の違いというか)

久しぶりの友人から連絡をもらったのだが、彼とはいつも口論になる。どちらから始めているのか考えると、彼は俺が上手いこと言う前に昔に俺が言ったようなことを先に行ってしまうので「そやな」というと会話は終了する。それで話題が変わるのだが、自分の中でもどっちともつかない話題になると、彼が言ったことに俺は逆張りする。だから口論になるのだな。近頃はメールなどのツールのおかげで順序や何やと後から分析できるのだが、そういうものがない時代は口喧嘩をして喧嘩別れしてまた時間が経って仲直りして話をしてケンカになってを繰り返した。後になってみると苦言に思えたことが正しいこともあるし、口では負けたとしても自分のほうが正しいと思いなおすこともある。

ところで、今日のタイトルもまたカプエス2なのだが、Cリュウ・ガイル・ギースというチームで神豪鬼を倒してクリアできた。このチームはモンテカルロに通っていた折にサガットが一番強いと思っていたのでリュウ・ガイル・サガットかギース・ガイル・サガットかと悩んでいたら、岡山から来たプレイヤーが「リュウ・ガイル・ギース」と取ってきて、とても味がよく見えた。その人は対戦で強かったわけではないが、サガットが最強だからそれを取らねばならないという縛りの中で苦しんでいる俺にひとすじの光が差した感じがしたのだ。

俺は高校の文化祭で絵の才能を周囲から評価され、進路で美術系を進められながらもフリーター時代に美大系の落伍者のつながりが出来て専門学校で映像学科に進みながらも食っていくために資格をとってプログラミングの単位を全部取って美術の道は最初からあきらめていた。芸術界では誰でも出来ることを丁寧にやるより奇抜で先進性のある人が「それを最初にやった人」として評価されると考えている人に影響され、そこからプログラムの世界で雑用を受け持ちながら、翻訳物の本をたくさん読んでオブジェクト指向という技術をいちはやく関西に持ってきたのが自慢だった。

しかし、工業の世界は新しいことをやるより既存のものを丁寧に磨き上げるのことが思いの外に評価される世界である。そして相撲の世界というのは舞の海のように新しいこと奇抜なことをする人が受けた歴史もあるにはあるが、どちらかというと切磋琢磨に相手と同じことを取り合い、両者が近くなってきて最後には同じになった時にいちばん評価されるような世界ではないかと思ってみている。

芸術界の話も芸術家の端くれから聞いたような話なので、本当に丁寧にやっている人が新規性を持った人より評価が低いというのはテレビの見過ぎなだけではないかと思う。テレビを見るのは楽しいが、テレビ的評価が評価のすべてだと思うと大事なことを取りこぼす。

他人というのは無数にいて、関わる人との関係性とテレビや雑誌などの刊行物での取り上げ方をごっちゃにしているだけの話で、やはり身近な人に気を使うという当たり前のことを放っておいていわゆる天才のエピソードを自分に重ねていたらそれこそ猿真似かもしれない。

今日のカプエス2(バーンナックル見てからライジングタックル)

今日もカプエス2を練習。

キム・テリー・ガイルの順番を入れ替えてテリーとガイルを前に出してプレイ。

グルーブポイント稼ぎでは鳳凰脚などでヒット数を稼げるキムが最強だけど、テリーやガイルでも上手くやると優勝までにGP1500を越して真ボスを出せる。特にガイルでファイネストでなくGP1500のほうを達成するのを目標に遊ぶのが面白い。

テリー同キャラでコンピュータテリーのバーンナックルを自分のテリーのライジングタックルで返す。それもリスクの低い小ライジングとか大のカス当たりではなくバーンナックルが触れる直前まで引きつけて近距離になってから大ライジングが全段ヒットのタイミングで綺麗にカウンターが決まって気持ちよかった。

ガイル対ナコルルでもアンヌムツベを見切って大サマーというプレイが出来た。

この辺は自分でカウンターを体験したことの無い浅い人からは「バクチサマー」として貶されたことがある。特に中学の頃、ストIIダルシム対ガイルはダルシム有利で詰んでいるとガイル使いの先輩から避難されて「いや、行けますよ」とダルシムとガイルを交換してダルシムの伸びた手足をサマーで返すと「そんなんバクチやん!」と。

確かにあの頃は博打的なもので、中学生の自分に高校生の先輩を言い負かすことは出来ず、詰将棋のような手順や論理のようなもので決着したいという先輩の欲求が中学生の後輩によって阻まれて苛立ったということに過ぎないのだが、その時の先輩からの「バクチは禁止」というルールをその後の格闘ゲームライフに引きずっていた。

それでヴァンパイアハンターの頃に毘沙門のガードキャンセル鬼炎斬を使いこなしてゲーセンでつるんでいた相手がガードキャンセルでない起き上がり鬼炎斬を打って「そんなんバクチやん!」と文句をいうと「バクチで何が悪い?」と絡まれてケンカになって、その諍いは俺が就職して会社帰りにゲーセンに寄ると不良グループが嗅ぎつけていつも帰り際を狙われるという所まで、かれこれ10年くらい続いた。

進学校を出て不良に口喧嘩で負けるというのは悔しいが、バクチはいけないというのは俺が中学の時に高校の先輩から強いられたルールであり、それを先輩後輩という縦社会とは無関係のものに強いることは出来ない。

それでバクチ肯定派になったのかというと、バクチになるとシラケるという気持ちはありつつも、ストIIXのブランカのアマゾンリバーランをガイルのサマーで斬るのはバクチなのか見てからなのかということで論争になった。

この時に見てから派とバクチ派はゲームで勝っているのは見てから派で実際に確実にアマゾンリバーランを返していたが、見てから派は少数だったゆえアマゾンリバーラン対サマーで何度も何度もアマゾンリバーランだけをブランカがタイミングを変えて出して、それをガイルがサマーでどこまで斬れるかという実験が行われ、100回くらいやって一度ガイルが何も出していないブランカにサマーを空振ってしまい、ダウトとなった。

ただ、もしそれが五分五分から6:4くらいなら博打ダウトが成立しても99%成立しているなら見てから成立で良いと思うんだ。確実なものしか信用しないという石や金属のような硬さのもので人間出来ているわけではないし、集中力とかプレッシャーのよるミスはある。

同じような議論はストIII3rdのヒット確認でも起こり、ケンのしゃがみ中パンチ疾風迅雷は成立、豪鬼の立ち中キック滅殺豪波動も成立、だけど春麗の中足遅めキャンセル鵬翼扇はダウト、ケンのしゃがみ中キック疾風迅雷脚は出来ると言うと嘘つきという塩梅だった。

このへんはベン・ジョンソンの100m走フライング疑惑のときの他の一般人を使った反射神経測定によるフライングルールの改定と同じで、ほとんど多数派による政治的ルール介入と言って良い。公平さを求めるあまり出来る人と出来ない人がいるという身体的な不公平をルールによって出来ない人のレベルまで押し下げるという考え方だ。

ただ、それは突き詰めると「かけっこみんな一緒にゴール」みたく競技が競技である所以が無くなってしまう外圧であって、競技は競技としてその結果を序列として人間関係の上下に持ち込んではいけないという話なら分かるけど、競技そのものを茶番にしてしまえというのは筋が違うんじゃないかと。

だから、競技としてでなく個人的なトレーニングとして、見てからサマソ、飛燕斬、ライジングタックルでコンピュータ相手に返して遊ぶというやり方の中で昨日の自分より見切りが良くなっているという主観的成長観測が楽しいんだけど、対戦のルールとしてのバクチ禁止って近頃のEスポーツ業界ではどうなんですかね。

厳格な規定としての意味合いでなく、ちまたの野試合での風潮みたいなものでも。ただ、見切れれば強くなるのは確実だけど、見きれない人がイチかバチかに賭けすぎるとそこに穴が空いてズルズルと悪くなるという確実を求める派の意見も分かる。だから、見切れるのか見切れないのかってのは他人から見てどうではなく、当人がケリを付けなきゃならん問題。バクチで打って負けるやつは勝手に負けりゃいいし、見切って当ててくるやつにルールを強要して文句で勝つのはスポーツで言うと審判不正に近い。

まあ、とうに風化して忘れ去られた問題なのかもだけど、俺が格闘ゲームコミュで活動していた頃はよくそういう議論があったんですよね。近況としては以上です。


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