心地よい年の瀬を迎えられそうです

今年は特に振り返って大きなことは成していません。

頑張って生き急いで「今年はこれをやった」と言うのは楽しいのですが、年を越してみてからお正月に脱力感でボーッとしてしまい、結局出来たから何だったんだと。次は何をしようかと新年の抱負にも悩む。

そうすると、これをしたいあれをしたいの前に「してどうなりたい」を考えると、結局はゲーム作るにしても作って売って儲けてゆっくりしたい、みたいなヨコシマが必ずあるわけで、じゃあいっそ1年くらいゆっくりしてみたらどうだ?というのが今年でした。

だから大きな買い物もしていないし、大きな仕事ってか仕事級に力を入れた趣味活動もしていません。

その結果として頑張っている周囲の人と比べて休んでいるに等しい俺という卑屈な陰が差したりもしましたが、それを吐き出してみるとその裏側にある「勝ちたがっている俺」にはたと気付き、そいつに「どうしてそんなに勝ちたい?」と問答することで俺は何事の勝負も勝ったら天国負けたら地獄だと思っていて、負けたことがなくて負けの地獄を必要以上に恐れていることにも気付いたんですよね。

年末に今年の自慢が何もない!どうだ!ここが地獄だかかってこい!良いお年を。

誰も必要としない下層のカードのゴミの山がMTGを支えている

デジタルゲームを商売としているとカードゲームを敵だと思うのか、某ゲーム企画の人が「MTGは大量のゴミが出るのが問題」というツイートをしていた。

だが、そんなにゴミの出るゲームを遊ぶ人が何故いるのか。大体分かった気になった。

誰しも、ゲームに参加する以上は勝ちたいわけだ。仕事としてお接待で負けるというのはゲーム外ゲームのマネーゲームで勝っているから負けられるのであって、自分が好きでゲームをしていて競う形を取っているのに永遠に底辺から脱出できないと自覚したら精神がイカれるので普通はその前に辞める。

だから、自分が本当は底辺でもそれを悟らせないために、もっと下を大量に作ってそこに人が寄り付かなくても「下がある」ということで精神の健全性を保ってゲームをさせるために普通の神経をしていたら弱くて使えないカードを混入させてそれを捨てさせることで「より良い選択をして、自分より下を切り捨てた」と思わせることにトレカのゴミの山の意味があるのではないだろうか。

俺が面白いと思った10年前のアラーラの断片のシールド・デッキは誰の目にも明らかな「当たりパック」に分類されるだろう。大会で参加者が多いので、準決勝まで進むと当たりは当たり同士で当たるので、結果は3位だったのであるが、5万枚から選ばれた60枚でも400枚から選ばれた40枚でも、まあゲームは似たようなもので土地を並べて怪獣を出して、殴り合った所に稲妻とか死の呪文とか地震とか竜巻とかハルマゲドンが起こって並べ合いの均衡が崩れて決着するわけだ。

もちろん、並べ合いの果てに怪獣がデカい多いで力押し勝ちすることもあるけど、おおよそトーナメント初戦で一番弱い人と後の優勝者が当たったとしてもそこまですごい差にはならない。同じような似たような怪獣が入っていて、よほどの不運で何も出ないで終わるということはあるが、怪獣を並べあってミニラ5体をキングギドラ10体で倒すようなゲームにはならない。

そう、参加して6パック相当90枚から23枚を選ぶ時に外れるようなカードはカードショップでも売買されずにゴミ箱に行く。そうでなくてゴミに気を取られているようなカードショップも昔にはあったが、ほとんどが廃業している。

カードセットがどんどん発売されると90枚中23枚のスタメンもやがて500枚のうちのゴミになる。プロツアーとかでもなかったら、そもそも500枚も買わなくても90枚買うだけで充分に面白いのだけど、それを超えたエグい集金システムが競技トレカの世界。

そんなプロプレイヤーでも、大会の催しとして90枚を主催者からランダムに配布されてそれで競技をするようなことがある。そこで、自分の実力だと思っていたらただの持ち物だったカードを奪われてはじめて、はっと実力に気づくものだ。

俺も山ほどカードを買って、リミテッド大会にも出てようやくそれに気付いた部類なのだが、そこから客でなくプロプレイヤーやカードショップに転じれないかと考えたことはもちろんある。

しかし、奈良の田舎で目新しいものであったトレカで小学生でもゴミはゴミだと判じてリサイクルショップのような役割を担うことは出来なかった。どちらかというと奈良でもボンボン趣味に新しくカードを買い足す人のほうが多いのだが、それを相手するプロプレイヤーもいなければ捨てられたカードを何とかする負け役の業者もいなかった。ただおもちゃ屋にパックが届き破り捨てられブームが去った。

大枚はたいてカードを買う人の払ったカネを負け役に給料として上手く回す仕組みがあったら、お金のために負け役を買う人が出来て循環しないものかなと考えるのだが、そんな仕組みを明け透けにして果たして誰が引っかかるのか。

だから、負け役という人が存在するのではなく、捨てられるカードの山という幽霊負け役を作り続けることがカードゲームのエンジンの排気ガスで有り続けるのだろうな。

MTGを考えるのは好きだけど考えても変わらないよね、という話

昨日用事で難波に行ったついで歩いて日本橋に寄った。

MTGを置いている店にも立ち寄ったけどあらためて見ると高くて手が出ない。

だから帰ってきて昔のシールド・デッキをもう1度分解してみた。

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写真のクリーチャーとスペル構成に山8枚、森2枚、沼4枚、三色ランド2枚、全景1枚映ってるオベリスク1枚

つまり、赤12枚、緑6枚、黒8枚。

これ赤シンボル3つの「捕食者のドラゴン」までを勝ちパターンとしたマナカーブとしては正しいんだけど、あらためて勝ちパターンを考えると2ターン目「朽ちゆくヒル」のほうが圧倒的に勝率というか有利度は高いので、もっと黒緑に散らしたほうが強いのかなと考え方が変わった。

回れば勝てるというわけではない。やはり早いターンにコスパの高いカードを繰り出したほうが有利で、せっかくヒルとトリナクスがいるのにドラゴンの出るターンまでまともな戦線を構築できないこのデッキは弱いかもしれない。

ただし、赤黒には除去があるので「血の復讐」か「穿刺破」を引けば赤黒でもドラゴンまで粘れる可能性はある。3位入賞はしたので、当時はそれに満足して残りのカードとか景品はまとめて処分してしまった。それを今もういちど考えると残りのカードもよく吟味すれば1位狙えるパックだったかもなと思った。

もう、確率計算では散らすか寄せるかの堂々巡りで、トランプの種無し手品でも練習して、2ターン目に森と沼とヒルを引く練習するほうが強いだろう。

そこがつまらないから興ざめしてるんだよな。

 

だけど、このシールド・デッキは俺がMTGを現役で頑張っていた時の1番の当たりで優勝に最も近かった配牌なので、これで3位までしか行けなかったのはやっぱり配牌ではなく自分にまだ甘い部分があったのだろうという思いがあるんだよな。

だからデッキ構築でも、序盤から中終盤までなだらかにテンポ良く組むだけでなく「こうなれば勝てる」という場合の組み合わせが最も多くなるように構築すべきじゃないかと思うように考え方が変わってきたんだ。

サイクリング・グレイブディガーが本当にカードアドバンテージになっているかと考えたら、「ジャングルの織り手」は入っても「峠のラネット」のほうは怪しいんじゃないかとか、最初に書いたように土地配分が怪しいとか、インチキで持ってきたカードを混ぜたり手品で決まったカードを引き当てたりに走る前に、ゲーム理論でもう1歩を詰められないものかと。そうでないと、昔の自分に申し訳がない。

哲学的な話をすると、結局はゲーム大会での優勝を通じた内因世界の変化が目的であるなら自分とよく向き合って心を整理するほうが大切で、優勝を通じた外世界の変化に何を求めているかを別の方法で実現できないかとかも併せて考えるほうが良い。

だから俺はMTGにあてもなく何度も挑むよりは、この1回のシールドを何度も考え直して無駄な出費をしないようにしているんだ。


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