スシローの寿司が旨い!

夕食にスシローのお持ち帰り寿司を食ってクリアアサヒストロングゼロを飲んだ酔っぱらいのブログを読まされる方も気の毒な話ではあるのだが、書いてみる。

俺のジョークで「年収が1000万を超えると寿司がとまって見える」というのがある。

これがウケる人というのは完全に限られた内輪ネタで、普通の人は意味不明だ。

どういう意味かというと、シューティングゲームで弾避けをする時に集中力の高い人は弾が他の人よりゆっくりに見えているという話が先にある。

相対的に集中力が高いほうが脳の処理能力が上がっていて時間がゆっくりに思えるという説と、コンピュータでもハイスペックになっても計算量が同じように上がっていてサクサクとは動かないことから、人間でも文章の意味を要約するように画面の弾と自機を訓練により要約して、攻撃判定の点と自機の四角に要約する、または色を無視して白黒にするなどの何らかの計算機科学的なビットレートの縮小を行って弾がゆっくりに見えているという説が飲み会で話題になった。

彩京のストライカーズ1945IIでは5方向弾が高速で発射され、自機のそばでゆっくりになる。またケイヴのエスプガルーダでは無敵のボンバーに加えて覚醒をすると弾がゆっくりになる。このように、人が飲み会でぶっぱなした仮設はゲームプログラムとして疑似体験として提供されている。上手い人にそう見えているなら下手な人にも同じように見せてやれば売れるとか面白いと思ってもらえるという価値判断だ。

そこへ来て、それらを踏まえて「年収が1000万を超えると寿司が止まって見える」である。年収の低いものの寿司は基本的に回転寿司なので食卓のそばをレールに載って回っているのであるが、年収が高くなるのと銀座の寿司店などで板前がカウンターに置く寿司を食べるので、それらは止まっているのである。

ちょっとブラックな仕事で手に入れたあぶく銭で高級寿司店に入ったことがあり、それから家族で「くら寿司」などで食べると「あの止まっていた寿司の味をもういちど家族に味わってもらいたい」と時々思っていたのだが、みんなで寿司に行く時に自分だけ行けずにお持ち帰りの寿司をもらって「夏場に大丈夫かな?」と思いながら食った「スシロー」の寿司がこれが本当に1皿100円なの?と思うほど旨かった。

まあ、クリアアサヒストロングゼロを飲んだオッサンの味覚がどれほど正しいのかは分からないが「年収1000万を超えると寿司が止まって見える」とか言わないで、普通に冷解凍の技術が上がるとネタの鮮度が良くなり、バイトの人のほとんどはバイトテロでなく律儀に仕事をしていて、お持ち帰りでもこんなに旨い寿司が食えるのか!と感動することしきりなのである。

「読まれまい」とするのと「ゲームで勝つ」のは微妙に違う

将棋と格闘ゲームを一緒くたに例えるのもどうかとは思うが、対戦型のゲームで相手に手玉に取られて負けたこと、もしくは反対に手玉に取って勝った経験はあるだろうか。

例えば、ジャンケンをしている場合にもし手玉に取られるように負けていたら、手玉に取られている状態の手から残りのふたつに変化させることが出来るだけでアイコもしくは勝ちになる。

格闘ゲームバーチャファイターのようなルールだとジャンケン的なところもあるので、相手に悟られないように手を捻くれさせることだけで相当に良くなる。

だが将棋はどうだろう。考えると、将棋で悟られまいとするだけなら端歩をいきなり突くとか王将や金将を上げる手が浮かぶ。確かに読み筋から外した手はチェスクロック型で相手の思考時間を奪うには有効かもしれないが、勝負において勝ち筋の太い手と細いては明確に存在して、相手の読みを外すだけ外したとしてもそれが絶対値的もしくは期待値的に細い手だとそれだけでは勝てない。

割と今更なのではあるが、俺は子供の頃から人に読まれて手玉に取られるのを嫌って生きてきた。母親も子供の意のままに操るのが好きなタイプで、いい子にしていれば褒美をもらえるのだが、褒美に預かるよりも母親の意図から背きたいというのが自分の自由意志を獲得するということだったように思う。

お笑いにおけるボケもベテランから習った定跡でなく、誰も付いてこれないような発言をするのが面白いと考えていた。だが、それで上手く回っていたのは自分の周りに自分では気づかないながらもう1枚上手がそっとそばにいて、それを面白く突っ込んでくれていたからなような気もするんだ。

反対に、勝とうとする、狙い通りにやろうとする、得をしようとする、おいしい役を取ろうとすると、狙い通りに驚くほど上手いこと行くこともあるのだが、なんとなくそうなるとさらにそこからもう一歩進んだ所でオセロがひっくり返るように罠にはめられているのではという恐怖感がわいてくる。

なんとなくだが、チェスボード上の割とどうでもいい部分でなく勝負を決める立ち位置に関係のあるところに自分が陣取っている、そしてその状態で次の手を読まれているという感覚があるのだが、これは子供の頃の読まれていないけど勝ち目の無い手よりは幾分かまともな考え方に自分が寄って来たからなんだと思っている。

時間給という権利

権利と呼ぶか利権と呼ぶか、どちらでも元来は同じ意味であるが権利というと投票権や人権のような国から国民に与えられているもので、利権というと株の配当や家賃収入のような不労所得をイメージするかも知れない。しかし両方はもともと同じ権利という言葉である。

俺は金持ちの生まれであるが、爺さんの代から親父の代での相続税を親父が払い、相続でこんなに持っていかれるなら親父が死んで自分の代になる頃には働かないといけないかなと思っていて、子供の頃から店を継ぐのを諦めて会社員か何かになろうと思っていた。

現状、お金はまだまだある。20代に家を飛び出した最大の原因はお金の問題でなく家庭不和だから、家を出た話を権利の話しと結びつけるのは難しいが、家を出て借家に住むと毎月家賃を払うことになる。会社に勤めて給料をもらって、そこから自分のカネで食料を買い家賃を払って光熱費を払って、それでも最初はひとり暮らしが自由で楽しかった。

しかし段々と習った技術の陳腐化が進み、新しい技術の勉強をしながら働いていると会社の中にも新しい技術に興味を持つ側と既存技術を権利化しようとする側に分かれる。

やがて俺は病気をして、実家のない人なら死んでいるか浮浪者になるところだが、実家の親父が引き取ってくれた。それから住んでいたマンションを引き払い、実家から通勤で働ける場所を探して働いている。

幸い、俺の家には部屋がたくさんあるので、自分の部屋にテレビとパソコンを置き、親父とはテレビのチャンネルで喧嘩をしたりはしなくてよい。互いの時間をどう使うかにも干渉しないで生活している。7人家族の頃と比べると随分と自由だ。

そういう自由とお金の自由はまた少し違う。大阪に勤めていると千円持って街をぶらつけば色々なランチの誘惑があり、どれも美味しいものだ。だが店をしている方はどうだろう?昼の時間に押し寄せるサラリーマンの団体さんに食事を振る舞うために前日かその日の朝から仕込みをしたり市場に行ったりしながら、いざ昼の時間になると毎日何人足を運んでくるかは分からない。

その点、工場には食堂があり、決まった時間におおよそ同じ人数が食事に来る。しかしメニューは日替わりで選択制ではない。それでも俺はその程度は不自由とは思わない。会社が食事の用意を金銭的に半分くらい補ってくれるので、外食と同程度のメシを半額で食えるからだ。

仕事もお金もなかった人にとって会社員であることと賃金が時間給で保証されていることがその人にとって最大の権利なのである。投票に行かない人、プライベートのない会社人間という人はいても給料をもらわない人というのはいないのだ。投票権や人権より給料は大きな権利である。

結局の所、自由と権利は相反するものでなく、より大きな権利がその主体に自由をもたらすのである。現代ではその権利の多寡を競争にまかせるか政治介入で分配するかを投票で決めているのである。投票もまた数の大小を競っていること自体が問題の二重化を生んでいて、矛盾をはらんでいるのだ。

時間給という権利を剥奪されても自身で生活するだけの強さを備えた人間も理想のひとつではあるのだがな。


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