米国が共和党政権になったら国際競争はいらなくなる

日本が食っていくには日本人が世界でトップクラスの工業力を誇り工業と貿易によって食料を外国から買わなければならない。

これって日本で取れるコメや魚つまりお寿司とか鯛めしとか食ってりゃ解決する問題ではないのか?いやさば味噌定食とかイカめしとか鮭茶漬けでもええんやけど。

現状、日本でよく食べられている魚介は海外の漁港で上がったものだったりもするのだが、そもそも何かで儲けてお金を浮かせてそれでメシを買うって仕組み自体がそもそもどこかおかしくて、人数分のメシが当たるなら生産と物流でみんなに当たるように配れないものかと。

それらが全員同じ食事であるべきってところまで行って、缶詰とかしか当たらない配給制まで行っちゃうと行き過ぎだし、みんなタダで飯食うってなると欲しいものが当たるかどうか、ケンカにならないかって可能性はある。

その問題があるとしても、メシのためだけにほぼ無意味な労働に束縛されて過労死する人まで出てくるっておかしくね?無意味ではなく玉突き上にぶつかりあって何らかの意味があるってことは認めても、普通に寝て起きて畑耕して出来たもので暮らすのと比べて、労働が行き過ぎになっていたら近代化の意味が無いんじゃないの?

確かにデスクワークでランチに居酒屋が当たるサラリーマンてのが畑仕事より羨ましいってのは分かるんだけど、高度経済成長時代を終えてみると、デスクワークにしがみつくために会社同士で過当競争のやり合いをして既にカタが付いてるんじゃないかと。

つまりもう、勝ってるほうが身を切って負けてる方に与えるやさしさがないと殺し合いと変わらないんじゃないかと。

そういう意味で、国際競争をこれ以上続けるのなら、米国で共和党が勝ってくれたら、ちょっと治らないものなんですかね。

課題はあるけど胸のつかえは降りた

俺にはやりたいことがまだまだたくさんあると思うんですよね。

たとえば、歌手になりたい、ギターを弾きたい、これらは自分のあまーい判断基準で自分で合格点を出してあげられるくらい、やってんですよ。

もちろん、子供の頃にテレビ見て歌手になりたいみたいな幼稚園な夢ならカラオケでも半分くらい叶うわけだし、それはそれでいい。

けど、高校の頃にはシンガーソングライターを夢見ていたように思い返すんですね。

書けない書けない。これが全然書けない。

そのへんで止まってるんですよ。

それで何となくその道は諦めて違うことをする。

プログラムの道もそんな感じで、小学校低学年くらいでゼビウス遠藤雅伸さんに憧れてたんですね。それで専門学校行って、大したこと学べなくてC言語の基礎モジュールからフローで進む占いゲームとかのプログラムをバイトでして、設計事務所で構造やってたんですよ。ゼビウスは置いたまま。そうしてるうちにスーツ着て通勤してる様がエリートに見られるんだけど、内実が伴っていない不安感みたいのが出てきて、それなら大学のほうがパシッと自分史がハマるのになというミスマッチ感があったの。

そんで一念発起してというか、ゼビウスくらいでもアセンブラで全部組むのは未だに出来ないと思うけど、ネットにゲームの基礎となる部分モジュールを公開している人というのはいっぱいいて、ブラウジングして寄せ集めて自分のパソコンで大合神しちゃうとゼビウスどころかグラディウスだって出来ちゃう。やろうと思えば専門学校の頃に憧れてたバトルガレッガだって自分で作れちゃうかもだけど、そのくらいで満足したの。

そうすると、またギター弾いて歌ってみんの。

今どきはネットにハウツーが色々あって、料理のレシピとか教えてもらえば誰でも出来ることが増えていってる。けど、流行を捕まえた歌詞の書き方とか、そんな方法あるかどうかすら分からないし、テレビで歌番組流してても最新曲が耳になじまないこともある。

それはそうなのに、ジャンル化された音楽は作り方が手順化されて、パソコンとDAWがあれば素人でもディアゴスティーニ読みながら編曲くらいは出来ちゃう。このへんも俺がグラディウスを作れたように横の展開でみんなで同じ問題に向き合っているうちに、10年くらい経ってみたら誰でも作詞作曲出来るようになっているかもしれない。

糸井重里さんによると「名詞を並べれば歌詞は出来る」らしいよね。野菜とかポケモンも歌詞になるくらいだから。アジアの純真とかさ。

何かに行き詰まったら、勉強してみるとか、ゲームするとか、勉強は悪いことではないしゲームも楽しいことだけど、どこかに自分の気持を置いてきぼりでやってる時にこじれちゃうことがあって。

そうじゃないよなと。作詞って相撲みたいにどすこいってぶつかりにくい。ギターの速弾きとかだと、根性で練習に打ち込んでみることが出来るんだけど、そういう感じじゃない。どうぶつかるか、考えて先回りしてできないってなっちゃう。

いやそう考えてると、考えの束縛を打ち破ってフレーズ出てきたんだけど、出来た歌をポップスみたいに5分に仕上げて編曲までしちゃうってわけにいかないから苦しいんだと思う。

もっと精進しなきゃなのか、秘密を共有できる助っ人をなんとか見つけ出さなきゃか。

名詞から歌詞ができるなら、今俺が考えたのは「声上げろ」みたいな命令形から入る人を鼓舞するような歌詞はアニソンのパターンにハマるかなと。これは今日平家物語那須与一が弓の名手だけど腕前を披露したら上司から「アイツ打て」と言われて射抜いて舟から落としなみたいな話を読んで、やっぱ命令形だよなと思って出来てきた。

勉強もたまには役に立つもんだなと思ってる。「超えろ!自分の限界を」みたいな槇原敬之さんの歌も命令形からだよね。自分に自分で命令しないと重い腰が動かないだけな気もするんだけどねー。

東大医学部卒との論戦に反論の糸口を探して15年くらい勉強した結果!

いやそんなにガリガリ勉強したわけではないんですけど。

東大卒というのは学歴による特権があるわけでなく、授業が良いわけでなく、小中高の過程で東大に通るほど受験勉強を勝ち抜いたその学力にこそ価値があるという論。

これは既に東大を卒業している人のポジショントークつまり優位性を保つための言葉なのか本当に義務教育及び高等教育を通してそれだけの知見が得られるというのか、気になった。

和田先生の本を読んだ当時俺はそれなりに上手く行っていた。就職してすぐはプログラムの仕事を給料をもらいながら勉強出来ると前向きに頑張っていたし、仕事がある程度難なくこなせるようになった時に自分の時間とか将来の目標とか、その時の自分がすでに周囲からうらやまれる立場であることを自覚できずにここではないどこかに理想を描き始めていた。

プログラムがバリバリ組めるというだけで専門卒という学歴では世間に容認されないほどの給料をもらい、色々な方面からバッシングを受けたが、そんな俺に和田先生はタクシーに乗って寿司でも食いなさいと教えてくれた。それまで俺はマンションから近い古民家カフェで起業を目論む彼女の店でお客さんをしていたが、段々と生活レベルが上がり本屋に通って本を読むうちにテレビで自分たちがものすごいバッシングの対象にされていることを知った。まあ、簡単に言うと本能寺の変みたいなもので、理系の勉強ばかりしてきて中学校の社会科で隠喩されているような嫉妬のコントロールが字面通りにしか読み解けず「文系は無意味」「ネットはテレビを超える」という言説が既存メディアの文系人に利用されたのだ。まあ映画でいうとラストサムライ

まあ、問題の本質は競争をいかに勝ち抜くかでなく勝ち抜いた後どうするかだが、受験勉強を押す和田先生の論理は野球をやってプロ野球選手になるより勉強して東大に入るほうがドラフト指名の数と医学部合格者数の数、それに野球人口と受験人口を分母にした合格率を比較すると医学部のほうが幾分入りやすいという話であった。

そういう意味ではIT技術者というのは簡単に時流に乗っていた。競争が無かったからひとり勝ち出来たという個人的な幸運であった。

それで、バッシングを受けてこき下ろされてから「東京に来ないか」という誘いは全く無くなり、実家から通いやすいシャープの工場やその周辺産業での勤務。それとて入った当時はシャープが液晶パネルで大繁盛だったが株価急落と鴻海の買収であまり良い経歴とは言えなくなった。

仕方がないので勉強が足りなかったのだと自分で反省して、中学の学参の漫画本を買って読んだりしていた。

気付けば15年くらい経っている。その間にはギターを稽古してユーチューバーになってまた猛バッシングでこき下ろされたり、憧れのゲーム産業に転職して猛バッシングされたりしたのだが、江戸で初めて気球を作った人が庶民を驚かせたとして幕府に処刑された話を何となく思い出したりするのである。

受験勉強もテストの前の頑張りとか、山の当たり外れによる得点差で結果にムラが出ることはあるけど、そうでなくて小学校からの成績の積立で中間試験期末試験のたびに生徒の間や世間の風評が「出来る子」「出来ない子」に分かれていって「あの子なら良いだろう」という合意を得た子が合格していないと、いわゆる地頭力とか要領の良い勉強みたいなもので普段勉強しているように見えなかった人がポッと出てくると「誰なんだあいつは!」「叩いてやれ!」ということになるものなのかなと。

表面的には競争の体を取っている受験ではあるけれど、どちらが勝ってどちらが負けるかある程度の予測を周囲が立てていて、勝った人なり負けた人なりその後どうするかも勝負より前に考えていて、やってみて当たるか外れるかではハズレた人が当たった人を放っておかないという仕組みなのかなと。

つまるところ、水面下で企画して一攫千金を狙うやり方は日本的でなく、目標を明確に定めて周囲のコンセンサスを充分に得てからみんなで一緒にやりましょうということ。

野球少年の数は多くてもドラフト指名の頃には候補者は絞られていて、学校で勉強をする人が多くてもセンター試験が終わって東大の二次試験を受けに来る人の中で合格する人となると3分の1くらいまで絞られてくるんですよね。

それは多くの人がやってみてから、トップグループで競う前に枝分かれして進路変更しているからじゃないですかね。

そういう意味なら野球でも受験でも、本人に明確な意思表示があって、周囲のコンセンサスが得られれば競争倍率という問題はいよいよ本格的に浮かび上がってくる頃には相当に下がっているんじゃないですかね。野球がやりたいと思えばメンバーが集って道具と場所があれば出来るわけで、やってみてからその後どうするか決められる。だけど医学部となるとまず受験に勝たないと資格要件を満たせないわけで、そっちのほうが厳しいレースじゃないんでしょうか。


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