「メダルが出ないパチスロなど誰が打つのか」「たまにゲーセンで打つ人いるから」

カプエス2を遊んでも何か虚しく電源を切ってしまうのは秋の涼しさのせいだろうか。

先日も書いたが、俺は格闘ゲームで勝負をするのが硬派だと思っていたし、ゲームに参加する以上はそのゲーム機の中での決着が大切だと。ひいてはそれによって人間関係の序列が出来て勝ったやつが偉いとすら思っていた。そしてそれはゲーマーの中で集団思想となり、ゲームの台に群がって毎日勝負を繰り返していた。

はずだった。

どこからか、いつからか、それは大和郡山のゲーセン「アイ・オー」に客が全く来なくなってからだ。俺は武者修行と称して電車でゲーセン巡りの旅に出たが、そこで出会ったよそのゲーマーはみな自分に類するものだと見做して付き合っていたが、同じくゲームの中に世界を見出して強さを競っているものと、そういうものが負けると悔しいから台に100円玉をどんどん入れる、その100円玉の山が馬鹿にできない大金だからまず金の在り処として我々を標的にして、近寄って仲良くなったり直接的に目当てのゲーセンに支払わせるために同じゲームを選んで一緒に遊ぶものが混ざっていた。

俺は分け隔てなく皆を友達だと思っていたので、ゲーマーとそれに擬態した泥棒の内、泥棒に近づかれて金や情報を取られたのに気づいた時に、その時は泥棒だと気づかず友達だと思っていたので、ゲームの大好きな数少ない友達から裏切られたと考えた。

まだ、そこで考え事は一旦保留だ。誰が友達で誰が泥棒か、大体の想像だけで人を判断してはいけない。ただ、寄って来なくなったものに対して真偽を確かめるべくこちらから仕掛けるのは危険だから。今はネットにこうしてブログを綴る中で文通にも近しい新しい趣味が出来た。

今から考えると、最初にアイ・オーにいた仲間からはぐれていったのが実は彼らも泥棒で、俺が勝つようになって思うようにカネが取れなくなったから誰も居なくなったのだ。だからゲームに夢中で真剣な仲間が、たとえ泥棒でもその真剣さ故にゲームプログラムの仕様に精通していて、友達になる取っ掛かりが出来ていたのだ。

自由とは万人の万人に対する戦いだとホッブスは言った。キューピー堂のおばちゃんが集まるお客さんみんなに分け隔てなく接しようとするのはゲームに支払われる100円玉はおばちゃんの懐に入るからであり、商売としてやっているだけだから損得勘定をすると付き合うと損になる。同じ考え方で、自分より強いやつと戦うのは皆お金の意味では損なのだ。

ただし、ゲームの必勝法が知りたい時に自分より上手と遊んでみて、負かされることは上達の近道になる場合もある。コンピュータとの対戦や攻略本より手合わせしてみて分かることというものもある。

その理屈が俺がゲームの対戦を通して人からカネを払ってもらえる理由のひとつ足り得るだろう。ネット対戦や動画サイトでの観戦が主流になった今、それが通じるのは古いゲームだけではあるがな。その本人から出た弁が結局は「運」というのが腑に落ちない人が絡んで来るのだ。


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