「開けゴマ」のラブソング

歌って音楽に言葉を乗せたものですよね。

モーツァルトは晩年苦しんだそうですが、音楽って鳴っている間はいいけど調和を解いてひとつずつ分解しちゃうようになると、作曲家になれると同時に音楽の魔法も解けてしまう。

虚しくなるんだと思います。

ただ、歌だと言葉が乗っていて、音楽に酔いながら耳から入った言葉もやがて心になる。

それでも、言葉が分かるって良いことだと思うこともあれば、怖いことでもあるんです。

立ち入り禁止の看板ひとつでも、デザイン原論を学ぶと未開人には通じないことが前提となる。ただ、言葉が分かると「立ち入り禁止」と文字で書いてあると守る人と、何があるんだろうと好奇心で反対にいたずらしに入る子供がいることも考えると、無いよりは効果ある程度。

そして素直な子が悪い男に口説かれるのも、言葉の仕業だったりするんですよね。

昨日は乃木坂46の「それぞれの椅子」を聴き直していたんですよね。だいたい最初から「きっかけ」までの5曲しか聴かないんですけど「太陽に口説かれて」以降の10曲を歌ではなく編曲とか特に最近気になっているベースに着目して聴き込んだんですよ。

そうすると、Perfumeとベースが被っている曲があるなぁとか、何か変なノイズが入ると思ったらイヤホンが服と擦れる音がノイズになった時にベースくらいの高さの音として耳に入ることとか。

そうして14曲目の「かき氷の片思い」に来たときイチゴのシロップのところだけ食べて余って溶けるかき氷に面食いのドルオタがシングル曲だけ聴くためにグッズとしてアルバムを買って「捨て曲」と言われている曲の中には「真面目に作ってられっか」という怒りを我慢して真面目に作るプロ意識みたいのも感じて、シロップのない氷の10曲に自分なりの情感とか聴き込みをする俺って多分ちょっと変な奴なんだろうなと思いながら聴き終えました。

ただしそれを明かすのってガードを甘くする行為だとも取れるんですよね。スキを見せているというか。ひねくれているようで、そのひねくれた考えを明かすことで返って読もうとしている人には自分の心理が読まれてしまうというか。

結局、女性から甘い言葉で誘われるのも、俺の弱点が「開けゴマ」みたいな合言葉と変わらないってことから、その対偶もまた真なりで若いバンドのラブソングをカラオケで歌うだけで恋愛ごっこになるケースもあるのかなと。顔が目に対する武器なら声は耳に対する武器たり得る。ということだと思うんだ。

人と人との関わりはもっと深いものだという理屈は分かるけど、街の中で生まれ育った俺には行き交う他人同士から付き合い出すきっかけみたいなものがなかなか見いだせない。

ネットを通す手口が他の男にどんどん真似られて巧妙化する中で町人同士というやり方も、その距離をどう詰めるか。歌が得意でも歌って聞かせる場などないし、場があったらあったでそれはどこかで演者と客の1対多の関係性の壁をまた作るんだよな。

誰かが壁の抜け穴を見つけるとそこで安全性は瓦解する。自分の部屋でネットで恋愛を満足させるには互いの安全性のためにバーチャルの中にとどめるべきという思想とマナーが俺を止める。


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