「闘争の学び手」キラレアの意味を噛み締める

 MTGの会場で行われるデュエルのほとんどは「クソデュエル」だ。趣味としてカードを集めてデッキを考えていると「勝ちプラン」つまり物語性を持って勝負の前にデッキを仕込む。皆がそうであるのに大会をしてみるとほとんどものは負けるわけで、勝者になるには面白さとか好きなカードよりも「クソデュエルの勝者になれるか」ということだろう。

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 考えて進めても、実際に試合をして勝った経験のある勝ち方を離れて計算の方を信じるということは難しい。経験を大事にする性格が計算して結果が悪い時にそれも確率から見たら運が悪い方に偏っただけであるという風には考えにくく、今まで勝ったことがあるときのデッキの方が強かったという風に考えが刷新されがちだ。

 また、軽視されがちだがデッキだけではなくMTGのデュエルではプレイングつまり駆け引きと手順により勝敗が変わるという話もある。それもDCIポイントとマッチングの関係で上位の人ほど当たり運が強いと見ることもできる。とかく、強いから勝ったというよりは勝ったから強いとされてその真似をするものが現れてくるということだ。

 俺は始めたすぐの頃はゲーセンの格闘ゲームをきっかけに仲間に入れてもらったグループで遊んでいたが、プロショップアデプトに集まるIT業界のつながりもある居酒屋組に入れてもらって、さらにその中で車族と電車族に分かれ、電車族と駅近とかで飲み会を重ねて酔っ払いながら色々の談義をした。その辺の筋はプロツアー経験者もいるが、仕事もあるからゲームばかりでもないし、言うことが正論ばっかりで最初は自分が「こうだ!」と押しても「いやいや」と返されて飲みの場で言い負かされることもあった。

 それが初めは跳ね除けようとして、後々から染みてくるのはゲームの面白さとして俺が感じているものと、本当に勝つために取り組むべき努力前進と見做される行動がズレていたからだろう。しかしさらに長く続けると、それでも連絡のある人は「MTGのファン」なのだと分かる。どうやったら賞金が取れるかとお金儲けの手段として追うのではなく、数ある儲け話の中でMTGの賞金に心を奪われたことがあるのは、こんな面白いゲームでカネ貰えるなんて!って思いがつまり、ルーキー時代に味わった勝ちでゲームにハマっていたから。

 今日はデッキがどんどん完成形に向かっていると思って出来栄えに満足して写真パシャってブログ書き始めたけど、書き起こしてみるとそうやって一緒に戦ったカードや相手との思い出は扱い方を考え直さなくてはいけない。浸るか、捨てるか、前を向けるか。

 ちょうどベスト8の時のデッキは4マナがカーブ中最高マナで、大会前日の電話デュエルでめちゃめちゃ軽くシフトした。そして当日は朝から先輩方に「今日は勝つんちゃうかな、尖ったねぇ」と褒めてもらっていた。

 今日もデッキいじりで5マナ以上のカードは切った。カードを処分して集め直してからの野良デュエルで俺の経験則は勝率の下がった苦しい戦いに変化した。どこからだろうと思うと奈良の中規模の大会で決勝まで進んでから、まず真似られてミラーマッチを経験して、やがて持ち物や出し入れを割られて対策されだす。そうして若い人に負かされる。

 「ここからはもっと辛抱がいるよ」と飲み仲間の先輩は言っていた。サシ飲みでは教えてくれたし、その飲みの前のドラフト卓でそれまで店でずっと勝っていた俺を「ちょっと勝ちすぎで他のお客さんが不機嫌ですよ」と負かしてきた、その時の先輩がめちゃ強かった。後からプロ経験者だと知った。

 昼飯なのでこの話はここまでとする。


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