最近のMTG(懐かしの緑五色にボガーダンの槌を)

 昨晩夜中に突然MTGのデッキを組み替えたくなった。ずっと試してみたいと思っていたアイデアが蓄積されて段々と頭の中で整理され「実現するんちゃうか?」と。

 考えたら、俺の仕事は昔もこんなだった。アイデア出しをしてカードを集めて、デッキを持ち歩いてデュエル相手を探し、街で目立って大会の頃にはすっかり浮き目立ってずる賢い奴は俺と同じデッキを持っていた。

 別にMTGに限った話ではない。格闘ゲームの戦略でもすぐにスパイされてどのゲーセンでも同じキャラが勝ち始めたりするし、このブログでもSNSに文体を真似たアカウントが大量発生して、なんならオシャレにしても既製品だと同じ服の人はいるわけで。デッキを作ると言っても陶芸みたいに作るわけではなく既製品のカードを開封して交換してあるいは買い揃えて並べるだけなので幼稚園から小学生でも余裕で同じことが出来る。まあ字がチョット難しいかもだが、ゲーム性はそこまで難しくない。アイデンティティなんてものは思索の中から行動に移す時に持つちょっとした自信のようなもので、そうではなく誰かになろうとする人間だってたくさんいるんだ。同町圧力だってあるじゃないか。右に倣えで解決することだって世の中には幾らでもあるんだろう。

 まあ語るのはそれくらいにしてMTGの話に戻すと懐かしの5CGであるようでボガーダンの槌が回るようで、一昨日までの白ウィニーに飽きが来て、強くなったか弱くなったかリセットをかけてまたその路線で強くする。てか5CGは優勝デッキになったけど、あの頃の単色研究をしていたフルバーンとかストンピィのほうが論理とか確率という意味では恐らく正しく、しかし現実は紙のカードを繰って対戦するわけで、マジシャンである塚本氏がプレイングで一枚以上上手だったんだろうなと振り返る。

 それにベスト8が多様で盛り上がるようにスイス式で序盤から同系は当てられる。審判不正ととらえる見方もあるが、無いわけではないし理屈も分かる。優勝デッキの真似をするものがたくさんいたら、それ同士全部当てたら五分五分に近くなりスイスラウンドで中堅に位置するようになるのだ。個性的なモノが勝たせてもらえるからこそ、あの頃の俺は周りより浮いていたがちょっと勝たせてもらえたのだろう。

 恐らく俺はMTGに強いのではなくMTGがこれといった解法の無いゲームで、悪く言うと幼稚で、それゆえ参加者全員のチャンスの運量は近く、藤田氏に言わせると競技レベルが低いわりに賞金大会であり、それの最たる例は競技を自分でするのではなく騎手のするのを応援する競馬や競艇や競輪やもっというとサッカーくじに宝くじ。

 競技としては簡単だけど予測が立たず技術介入度も無く同じ賭け方に乗ることだって出来る。もちろん、それとはちょっと違うのも分かる、自分でカード繰ってプレイするわけだからね。だからマジシャンが初期に勝ったという論理に帰って来る。

 もっと簡単に、自分のデッキを強くするのではなく、雑なシャッフルは多色だろうと単色だろうとカットひとつで事故になる。そのマジックもあったんだと思う。

 まあ、昨晩はそんな事ではなく赤緑を組んでみて「とぐろ巻きの巫女」や「ラノワールの幻想家」でカードを引きながら展開してマナとクリーチャーを並べて「貿易風ライダー」に持ち込んだり「ティタニアの僧侶」からの「分解」という勝ち筋を編んでいくのが面白いなぁと思うんだけど、工夫をしようが緑のエルフ並べるなら対策カードとしては「パイロクラズム」「地震」「神の怒り」が定番で、ジャンケンカードは捨てるの一手と賭博黙示録カイジを読んでもう捨てようと思ったトレカが古物商で高額になっているのを見てハメられた感じがするというような後悔も今はもうあまりない。

 俺がカードを捨てないでいたらベンテンドウは閉店したわけだし、それで相手がいなくなってダンボール箱にカードを詰めて送り付けたら恐らくその住所で店が出来る。

 あとは同じカードで遊ぼうとしても遊び相手が飽きるし結局自分も飽きる。そういう悔いは自分の行動をあらためるべく飲み込むべきであり、若者に夢を持たせるのではなく苦言を呈するように語るのは自身の失敗を経験知識として次は上手く行って欲しいと願うからだろうが、まずMTGに没頭する暇とカネを持って見たいと言われたら、働いて稼いでジャンジャン買って遊んで飽きたら捨てるのも一興なんじゃない?とも。

 何が面白いんすか?という人もいる中、真剣にやってトーナメントで強者と当たってデュエルした経験はなかなか俺他の事でそういう経験ないからまあ普通の人にとってそれは部活と甲子園や市立大会みたいなもんなんだろうけどね。文化部にも競技があるって話だと思ってください。


🄫1999-2023 id:karmen