科学の方法

 学問とは何か。科学は学問のひとつのあり方だがそれまでと何が違うのか。

 俺は25歳の頃にプログラマとして多くの会社を回った。専門学校ではライトウェーブなどの欧米の既製品を使った映像制作の技法を学んだが、映像というとビデオカメラで撮るものが安価で、手作りのCGと言うのが手間がかかる割にカメラで撮るよりチープに見えるので、全く仕事が見つからなかった。作品選考のためにゲーム会社に映像を送ったが、その出来栄えに専門学校が設備ごと会社に買い取られて廃校となった。専門学校では最大手のコンピュータ総合学院HALは任天堂IBMから設備投資を受けて学生は決められた会社に就職が決まる。授業料が安く設備もボロい学校を選んだ俺は手作りの卒業制作で大手のやり方を見返すつもりだったが、それは俺の手仕事とは認められず学校にHALを上回る設備が導入されたのだと誤解を受け、調べるために学校ごと買い取られたわけだ。

 仕方がないので映像作家ではなくプログラマとして就職したのだ。最初は建設業関連で数値入力のみで耐震強度のシミュレーションを行うユニオンシステム社で、CADシステムつまり数値入力ではなく画面に投射した図をマウスで操作して構造計算の入力を補助するシステムの開発部に3年くらいいた。22歳からだからそこを辞めたのが25歳に成る。

 しかし、そのシステムは社外秘なので自分の売り物が無い状態でプログラムが組めるという売り込みだけで派遣社員として様々のシステム会社を回るようになった。プログラムが組み合わされ、モジュールとなり、システムとなり、既に組み上がったシステムを運用しているコンピュータ関連業界で、3年かけた売り物を会社に預けたのは終身雇用だと思っていたからだが、短い規約期間で膨大なモジュールを相手にプログラミングで対外的な成果を示さねばならないとなった俺はかなり苦しい立場に置かれた。

 その様を買ってくれたのは上位にあたるシステム管理部ではなく、部品工場などのハードウェア系の中小企業だった。みな基盤をテスターで調べたり、半田付けなどをしているところに肩の古いパソコンが置かれ、そこで何か組んでほしい。仕事があるわけではない。「何か組んでほしい」ということだった。

 そこで、俺は本を読んでいた。洋書の翻訳物である「Effective C++」(効果的なC++言語)というやつだ。難読で手垢の付いた本となったが、同じ現場にいて先物取引の職歴を持つ若いエンジニアだがライバル視はしておらず「面白そうだから読ませて」というので貸すと、彼は地下鉄でその本を読んだ。そうすると「彼は手垢の付いた本をよく読んで勉強している」という噂を耳にした。俺はその運命の縺れに激しく苛立った。

 まあ、それは若さゆえで、もうちょっと踏み込むと誤解は些細なものだし、芝居かもしれないし、そもそもが噂とはそういうものなのだ。彼は技術者ではなく手品師かもしれないし、そもそも先物取引から来ているということは株式をチャートなどで分析するのではなく、若い日の俺がその工場で何をしているか見てくるための間者として彼が来て投資の有用性を図られたいたとも考えられる。

 そして、科学とは実証性が必要なもので、コンパイラの原理などを掘り下げないままC++言語を書物で学び、高級言語でモジュール設計をするというのは町工場では場違いだと今では思うし、そうして数値的な結果が出せない以上はコードはプロセッサの新部品としての物的価値しか認められず、どちらかというと理系よりもプログラムそのものに人文的価値を見出してプログラムコードを買ってもらうしか商材のない状態だったのである。

 もう少し、科学的に地に足のついた実験証明になる仕事か、そうでないならいっそ純粋数学的な意味を持つ数的発明でないと、投資してもらった分を返すに値する仕事にはならない。あるいは社会の役に立つとか公益性があるソフトウェアというのは在り得るかもだが、町工場で貯めたお金をソフトという無形のものを作る若いプログラマに給料の形で与えてもらった恩は公共利益ではなく会社利益として返すべきであろう。

 20世紀は間違いなく科学の世紀であった。科学は客観と実証を伴う。しかし、21世紀のソフトウェア産業はつまるところ客観性のある「モノ」を買うのではなく、主観を満たすに足りうる情報を気前よく買ってもらわねばならない。


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