遺伝子はミクロの皮を被ったマクロ的生物論

 なんか極論を考えちゃうんですよね。人間が遺伝子のために生きているなら、出産可能期を過ぎちゃった女性とか独身のまま死ぬ男性とか何のために生きたのかという問いがあって。

 実際問題として遺伝子が残れば何でもいいとも思ってなくて、精子を冷凍保存するとか、例えば培養脳のタンパク質のDNAが人間由来でコンピュータの中に培養脳が組み込まれて機械が蛋白を維持するために動いて永遠に生きるとしても、その状態を生きているとして何が得られるかみたいな極論とか、トランスジェンダから生殖器を取っ払っちゃって性転換をする人が子供を残せなくてもその道を選ぶのとか、個々の事例を取り扱うと例外はある。

 多くの例外か微小の例外かはともかく例外があるにもかかわらず、動物行動学というのが全ての動物を取り扱うのではなく種は遺伝子の型が似ているところから同種であると括ったグループに対して皆がそうであるというマクロ的な学問であるのに、DNAがそれらを演繹的に制御しているというミクロからの展開をしているところが詐術的だと思うんよね。

 極論というのは局所的な論理からそれらだけで世界を全て統合して想像を働かせて説明しきってしまおうという時に起こるもので、その良し悪しではなくあくまで推論であることに動物行動学という実験証明的な事例を挙げて根拠があるとしているところも詐術的だと思う。

 そして、それらは書籍の形で出版されており、販売益とか印税収入を見込んだものなのではやって売れた方が良く、扇動的な要素を含んでいることは咎めるではないがそういうもの。ノストラダムスの予言が終末論から刹那的な今を生きる考え方を波及したように、ベビーブームが終わって少子高齢化が予見される時代に盛大に子作りに励ませるデマとも考えられる。

 まあ、個人的問題として考え方を改めることで心が相当に楽になった。人生を謳歌したいという漠然とした思いはあったとして、じゃあ普通に生きるその捉えどころのない普通は集団の集合和にあるわけで。俺は別に特別な人間だというわけではないかもだが、特殊な生き方をしているとは思うのよね。


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