生存戦略とアート

 ブログの過去記事でもゲノムとミームについて悩んだが現状ミーム優位。

 これは過去に議論され、近畿大学あたりでは教授が知識として持っていたことを学生に授けて、代わりにゲノム(または遺伝子、DNA)優位の学説を高卒以下に教えた。

 当時の俺はゲノム優位とミーム優位についての深い考察を持たず、まずばらまかれたゲノム優位の論理から出発した。これはゲノム(遺伝子)とミーム(文化や芸術)として捉えたときに、醜く生きるか美しく死ぬかという問題に転換して考えられる。

 平等や公平というのは一見美しい概念である。ただ、そこに美人とブスがいたとする。人は外見ではなく中身であるというのは学問をする上で考え方に重きを置くなら、賢いブスと馬鹿な美人という風に置いて見ると賢いブスが優れていることとなる。そして本音ではというか本能的に感じるものが美しさであり、理性でもって賢さで人を受け入れるなどということがあるかもだが、良くあることが「お前は面食いじゃのう、あの子の良さが分からんか?」などといってバカな男を非難している体を取って、ブスを押し付けて自分では美人を取る。この戦略は国民がほぼすべて結婚できる時代のやり方だった。一夫一妻の婚姻制度とも密接に関係している。

 しかし女性の側に立つと、男性が相手を選ぶ社会だとして選ばれる生存戦略が必要になる。賢さというと文筆のような学問のようなものをイメージするかもだが、本屋で最も売れる本は女性向けのファッション誌だという時代があった。化粧や服装を使うのだ。

 ここで不思議なのが、化粧をしたブスな女性と結婚してしまい、美人が死に絶えるということで生存戦略が知識優位なら、極論すると人工造形物のアートつまり人形と男性が恋愛してしまったら誰も生き残らないのではないかということ。

 そうすると美醜や議論でゲノムとミームが論じられている間に、赤道付近の実りが多い地帯で黒人がどんどん交配を繰り返して民主主義多数決の多数を取れる世の中になった。文化人にサルと揶揄された人種が生き残るということも予見された通りだ。

 学問をして美醜を考える人間に自然保護や農作業を政策的に説明するよりも、人形を抱かせて全部死なせれば自然は残る。これは自然科学とは無矛盾である。

 こうすると、結局はゲノム優位かミーム優位かはカテゴライズして定義された種の進化を二者択一の議論で誘導してミーム優位になり、実際にその通り美しいものは「モノ」として残るわけだが、それでも美醜を乗り越えて生き残っている生物は過去にさんざん議論された「人間像」とはちょっと違うものになるのだろう。


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