同化と異化から考える子供論

 息を吸って吐く。この時に地球の大気と人間は繋がっていて、宇宙も人間も区別はない。インド哲学というかそういう考え方はある。これに対する科学的な見解はどうあるか。お医者さんなら、というか医学部を目指すなら高校生物くらいで「同化と異化」を学ぶ。大気だろうと酸素ボンベだろうと、肺に空気の比率と同じ酸素を含んだ気体を送り込むと、内表面で酸素が血中に取り込まれる。この酸素を取り込んで人体の一部とする現象が同化で、肺胞の内表面に触れていない空気については、体内のようではあるが体外と見做す。

 その同化の反対が異化である。排泄や発汗に代謝などがその例だが、そこに射精はどうかと考えると、そんな論はまだないかもだが、俺は精囊の中で精子が出来たらそれは自分ではないと近頃考えるようになった。「生物は遺伝子の乗り物に過ぎない」という論では、男子は成長して卵子に射精できればバトンが渡されて人生の目的をひとまずゴールすると考えるが、では俺は両親そのものなのかというと、半々に遺伝していて、それも多くの先祖からのもの。

 ちょっと違う話になるが、恋人と別れて辛い思いをした時に、相手が他の相手と結婚して子を作り、自分も誰かと結婚して子を作れば、遺伝的合体は将来的に子孫同士で起こる可能性があり、この狭い島国で似たような人種がひしめき合って生き残れば、生物の遺伝的特性は社会性ほどの価値を示さないのではないか、しつけや教育に文化があって、初めて現代らしい。つまり問題は恋愛とそれを強調する貞操にある。

 俺は俺のエゴで俺が読書で学んで顕微鏡では見たことのない遺伝子というものを残そうというお題目で浮気や売春を正当化しようとしたが、人間の子供は親を始めとする他者の世話がないと自活できない生き物なので、俺は親と社会に生かされて成立していて、そして両親の愛とエゴを両方背負って、時に芸術家気取りの道楽もした。

 そこで人類史的にというか芸術史に残る仕事ができたかというと、志しても道半ば歩みだしたところでえ現世の楽を取り始めているのだ。もし子供が出来ても、親父も高齢で俺がせっせと世話をしないと、子供がヤングケアラーになってしまうかもしれない。

 それが自分自身の運命だとしたら、分かって人生の辛身を押し付けるような格好となる。自分自身だからなのか、他人なのかはさておき、辛いと分かっている人生のスタートラインに我が子を立たせるべくしてまで子が欲しいというエゴを生物の目的というような論理で実行してよいものか。

 そうすると、もっと裕福に育てられる経済力がある配偶者が良いというような女性側のエゴだってすんなり理解できるし、子を生む能力を失った中年女性との結婚でも前提であった「子どもが作れる」を取っ払うことで選択肢に上がる。

 俺の結婚観はともかく、暴論であるとされた動物行動学と人文との接点は見つかってきていると思う。孫を見せられないことに関しては両親やご先祖の本願が叶わなかったとして末代の人生の最後に詫びるとして、それでも子供を持ちたいと思うなら、相応に人生を楽しめる何らかの準備というか働きかけはしなきゃならなくて、それこそが俺の婚活になるだろう。


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