昨晩はソロモンズ倶楽部のレベル5(最高難度10問)に挑戦して5問解き6問目で破れた。解き方自体は恐らく合っているのだが、足元1ブロック頭上1ブロックで頭上にブロックがある時はジャンプしても頭を打つのだが、ブロックのギリギリ端からなら横に飛び上がることが出来る、これが恐らく1フレーム目押し。まあゲームボーイのフレームは1/30秒だったと記憶していて、格闘ゲームの目押しよりは甘いはずなのだが、何かを押してから何フレームで押すというリズムに転化できる目押しと違い、ブロックの上を数歩分歩いて「ここが端」というタイミングをゲームボーイの液晶で視認できず昨晩はそこで諦めて寝た。
深夜にカナブンが入って来て起こされてコンビニ袋を手に格闘して逃げられて起こされること3回、捕まえて窓から逃がして寝て起きたらいつもより遅い時間だった。
それからここ最近は龍虎の拳2のスーファミ版を買うかどうか悩んでいる。箱説付きの価格帯が1万円を超えていて値上がりそうだが今日は7000円台の出品を見た。値下げに負けて買いそうになるが本当に必要か考える。まず、同級生のY君の持ち物であるべきではないかと考える。友達とは何かみたいなことも考えるが、今までにストIIターボを流行の最盛期と統計的に見てこれで遊ぶ方が友達が増えそうみたいな感性は持っていた。同じようにギルティギアは青リロが得票。昔は偏屈ゆえ多数決が嫌いだったが、いつしか覚えている。それはiPodを買った後だ。音楽性向も偏っていたがiPodという最新鋭のものを持った時に注目されるようになり、自分が何となくかけたアーティストがトレンドに乗り、自分もトレンドを追うようになった。どこかにトレンドリーダーがいて、皆その人と同じものを持ちたがるのであろう。その路線からすると、龍虎の拳2は「買わなくてもいいや」としてしまうのはターボや青リロと違ってマイナだからだが、そうするとY君は友達がいっぱい出来たからもういいのかみたいな疑問に変わる。
同じものを持つことで仲間意識を持たせるというのは商売のひとつだが、それはそれは巧みな心理トリックで簡単なやつは「Y君友達だよな、ならお前も買うべきだろう」くらいで買ってしまうわけで、それで友達が多い奴に新製品を売りつけると瞬く間に商戦に勝てるのだ。その意味では俺もY君もゲーム好きということでゲーム会社のカモにされがちな奴らであった。そして今俺のしていることは友達の値踏みではなく龍虎の拳2の値踏みである。投資商品みたいに高くなるから買うという売り方は最近SNSの中古ゲーム界隈で話題になったが、それはトレカの商法であった。トレカには随分騙された。トレカ友達はたくさん出来たときがあったが、今も付き合いのある人はいない。
それで価格が幾らだったら購買に踏み切れるかと考えたとき、今が安くて修礼高くなりそうだから買うというのは投機的ではなく高くなったら買い辛くなるという焦りを狙った商法でもあるだろう。そこでゲームに幾ら使うのかという線引きをハッキリさせて使わないと、欲しいものが次々と出る現在進行形の市場であるわけで、レトロゲームを高額で買うならそのお金で最新機種を買えるほどの額になることもあり、しかし最新機種なら飽きずに遊べるかというと、ただ「高くて良いのを買ったから」という自己暗示で飽きたゲームをしがんでいるだけという論理もまた成り立つ。
ここはもう買う買わない、幾らだったらというところで線を引くのではなく、予算として生活余剰でゲームに使うのは幾らまでと決めてしまって、その範囲に価格が入っていたら買うという一般会計の常識みたいな落としどころを作らないと、心理的な永久ループにすぐにハマってしまう。反対に予算を決めて買えるなら買ってしまうことを即断できると悩む時間が返ってくる。これは給与労働者とか国家の財政の考え方だ。
むしろ悩む時間は十分あり、そのおかげでこの悩みそのものが今日の記事となった。ゲームというのは元来暇をつぶすためのレクリエーションなのだから、悩み事として買う買わないがあって、悩むだけ悩んだらそれはそれで思考が深くなるかもしれない。
まあ、話の前から売買でなるべく自分が得をすることを考えるテイカー気質でもって利得至上主義に陥らないように適正価格や値引き商品を買って店と仲良くするという論点もハズしてはいけない。それも踏まえて幾らだったら買うかではなく、自分が幾ら出せるか如何とは無関係にこの商品には幾らの価値があるという絶対的指標があれば便利なのにと思うものだが、残念ながらプラケースに入って半導体ロムにプログラムが焼き付けられていたとしてもゲームソフトというのは水商売みたいなものなのだ。