ケータイから「はてなフォトライフ」にログインできなくなった件

 俺のケータイはメモリ8GBのアンドロイドで既に7GB以上使っている。

 だから写真は「はてなフォトライフ」にアップロードしていた。ケータイの本体メモリを圧迫しないようにフォトライフをドライブ代わりにしてきたのだ。

 それが昨日からログイン画面が途中で止まり原因不明で写真がアップできず、仕方が無いからジーメールで自分に送っていたのだが、あまりに不便で今日からブルートゥースでパソコンに送るようにした。んー、便利なのか不便なのか、とかくケータイはメモリが圧迫されて便利なアプリの入れようが無い。

 まあ元々活字主体のブログだったので俺の正体は誰も知らず、ゲーセンで怪しい遊び仲間に絡まれて出身やら学歴やらハンドルやらがどんどん詐称に近いことをされて正体不明となり、しまいには俺の出ていないゲーム大会でミヤザワという名前で参加している人がいる現場にまで居合わせたが、かといってその場でどうするでなく、困った。

 特に卒業アルバムには名門奈良学園の由緒ある苗字の同級生がいたりするのだが、まあ自分で言うなってか高校卒業くらいまでは思っていなかったが、専門学校に入った時点で気付くべきだったが、普通の高校はたぶん「よくある苗字」が多そうで、そして本名こそ知らないものの由緒ある苗字に憧れるよくある苗字の人というのはいて、アルバムを見せてと言って「この苗字かっこいいなー!」とか言って、それから格闘ゲームの大会に友人の苗字や歴代総理の苗字などが並ぶの、あれ今から考えたらイタズラだよな。俺が優勝したアビオンの大会の二位のチームの名前「華原朋美」と「桜井和寿」だったぞ?

 そんなイタズラはある界隈からは低俗であるのかもだが、平たく一緒にいてみると日本の住宅事情の一角には大家が経営するマンションで面積あたりの賃料を上げるために高層で小部屋化していて、そこに住まわされて家が狭いうえに月々の家賃が生活を圧迫する庶民層にとって由緒ある苗字はイコールではないとしても恨めしいものでもあるだろう。金持ちというのは無自覚なやつが多く、貧民は自覚的である。

 まあ、何故に本棚を公開しているのかにも色々あって、騙りが多いので顔写真を載せると写りようと見えようが角度的に違うだけで別人と思われたり、髪型や服装も決まっているわけでもなく、また個人的に俺が物書きと知ってか知らずか、近所の本屋には俺が高校の頃から近所の本屋でバイトして同じ本を買ってやろうとするスパイのような店員が居たのも事実だし、それは過去形ではなく現在形で他の店員がそうしているかもしれず、地理的というか所在地座標的に近いと得をする仕組みというのもネット的に如何なものかと思うので俺の読んだ本を読みたければ同じものが買えるように公開している。俺としては他人との会話や文通に於いて違う養分を吸収して育ったもの同士の話のすり合わせが相互利益になるという観点に立っていたが、受験がそうであるように同じ教科書で得点を競う中で同じ教材から深めた知識にも属人性があるという観点に立つ。

 まあ、本をスパるというのは社交における発言が本の受け売りである場合に同じ本を読めば先手を取ったり素っ破抜ける可能性があることに賭けているのかもだが、俺の思う社会はもっと読書量が多い人を相手取っていて、俺のブログくらい俺と話す前に全部読んできちゃうような人と幾度か接触した。しかしそれはレアケース。普通の人がしたいことと言えば薄い目の読みやすい雑誌での言葉の受け売りなのだという理解をした。

 フォトライフの不具合も俺を含め多くの「はてな市民」に対するサーバー攻撃の可能性も考えられ、くだらないと思われる写真や活字のやりとりを理解できないながらもネットのプロトコルが分かる技術界隈から労働者イデオロギーのような攻撃思想を持ってされたものかもしれず、軽視はできない。

 今日の本棚の写真は中高生向けのところからも入っているが、そういうやさしい読書もそれはそれで経験が無いと、いきなり難しい本を読むと文字から口伝になる時に理解が追いつかず発言の空洞化をすることがある。それを劇では「台詞」と呼ぶのだが、人が何かを言った時に「それはこっちのセリフだ」なんて言い返すのは俺はバカだといつも思う。そもそも生きた言葉ではなく「セリフ」でしか発言していない事を自認しているからだ。もし世の中が平等公平で、それを正す言葉があるのなら、誰が言っても同じこと。俺の書いたことを俺が言って得するのではなく、他の場所で誰かが言っても社会を進化させる。自画自賛なゲームの話でも、俺が作ったゲームを他人が褒めたら俺の利益になるわけだし、それが俺の個人利得を目的としている間はそれはただの宣伝広告であって、そうではなく「ためになる言葉」というのは言う人が変わったら意味を失うものであってよいものか、というところは新しい論点となるだろう。

 ネットは国民がみな利用できるのもであり、俺はそこでモノを売ったりと自分の利得のための用意もしているが、それに否定を述べる向きは分かったとして、言論そのものは公益的でありたい。ただ、その出発点が「格闘ゲームダイヤグラムの平等化」であって、上手いと下手がいるときにダイヤをハンデとして対戦が近くなることも公平と捉える人はいるし、そもそも両者がカネを払って店が儲かる仕組みそれ自体が公益的でないという自爆スイッチを含んだ論壇ではあった。

 しかしそれを通すことでもともと互いに無関心であった個々人にゲーム議論を通して言葉は通じるようになって、お互いの生活事情なども少しは推し量れるようになった。

 そしてお金を取り合うという蛮行を経て、俺は公益も大事だがまず個人利得という右側の考え方も分かるようになった。余裕があるから左に寄付が出来るのだ。極左までいくと、それでは話はおさまらない部分もあろうかとは思うが、今日はここまで。


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