「食」からはじまる戦争

 NHKあさイチでカテリーナさんの帰省時に映っていた食事がなかなかに御馳走で、日本で戦時中を振り返って聞いてきた貧困とは随分と違うなぁ、というのをコメンテーターの博多大吉さんも近いことを話していましたが。

 子供の頃に受けた教育で「差別をなくそう」という話があったのですが、元々子供がまだ思想を持っていないなら差別なんてあることを子供にわざわざ教えなかったら自然に差別なんてなくなるんじゃないかと思って聞いていた節があります。

 その前に書こうとしていたこととして、ゲーセンで知り合った井上氏はいわゆるチビクロで差別する反対に優しく接しないとなぁ、みたいなことが反差別教育の賜物だったんですが彼が生意気になるほど「優しくしているのに」というエゴが強くなり、特に俺が内心で根に持っていたのが食の贅沢なんです。友達にカネを借りないといけないほど貧乏なはずの彼が借りた金で平気で街の「ごちそう」を食べてしまうのです。

 ちなみに俺の今日の昼飯はレンジごはんと瓶詰の鮭フレークとお漬物。賞味期限を気にして保存食を何食分か貯めこみ、近づいてきたのでスーパーに行けば牛めしを買うカネくらいは持っているのにシャケ飯を食ったのです。

 この時に井上氏の事を強烈に思い出したのです。「お金ないねん、貸して」とカネを借りてコンビニに入り適当にメシを買って「食べる分量とか考えないの?」というと「お金があるんやし食べたいモノ食べて残したらいいやん、どうせ深夜に捨てられる」と言うのです。これは時代感からすると井上氏の方が正しいかもしれない。廃棄ロスをなくすという社会の大問題を放棄して、自分は賞味期限を守っているという風に善人ぶるのはクルマに乗るのにタバコを環境破壊みたいな大問題と結びつけて糾弾するのに近い。

 これは俺がそもそもそんな議論の相手には井上氏はならないとか黒人を下に見ているから説教の対象にしてしまっているだけで、差別は無くそうとしないと無垢に育ったとしても顕在化しているのは何故だろうと考えると反差別でこちらの方が我慢しているのにという怒りの感情があるからってのも先に書いたけど、常識や通念の違いをまだ乗り越えられていないって問題の方が強く、戦後教育と街の常識があまりにかけ離れているのもあるかなとは思うのです。

 井上氏は流暢にしゃべることが出来るから対等な大人として接しないといけないのかなと悩んだのですが、まず食べ残しなどの問題について真剣に話し合い、それが社会としてどうあるべきか落としどころを見つけて、食べ残して良いのか悪いのか育ちの差で食べ残すのかキレイに食べるのかを互いに恨み合わないようにするのが差別解決の俺なりの第一歩だと思ったのです。

 これは黒人だから下に見てるからみたいに思ってたのですが、戦時中でも自宅でごちそうの出るカテリーナさんのような美人でも、食の問題についての感情は自然に沸々と湧き上がり、気付いたら涙していたのは戦争の悲惨さとかではなく、その貧富の差でした。白人が上位で黄色人種中流で黒人が下流みたいな考え方をしていても、黒人が食べ残したから腹が立ったのかもと自責の念も持っていましたが、白人の食を見てもやっぱり負の感情は湧き起こり、これが文化や風習の違いからくる民族ギャップと言うと大袈裟かもだけど「俺はこう育ったのに」と思うのはシャケ飯に漬物がマズいだけで牛めしでも食ってれば負の感情は湧き起こらず、カネがあるなら旨いものを食って余ったものをゴメンなさいすれば人に恨みを抱くことは無いかもだし、自分がそうして誰かから恨まれるかもと怯える気持ちももちろんあって、そういう縛り合いに疑問を持ってます。

 この平行線の論議は何から手を付けたら良いか、たぶん俺は人種の問題で絵は無く社会を隔てた風習と教育の違いから来るんだろうなと思っているわけです。

 そんな俺でもドリームキャストを借りパクしたオロヤンをそこまで恨まないのは色は微妙に違えど俺が給料もらった時「てめえら奢ってやるわ!」とゲーセンで人を集めて居酒屋で飯を食った時に日本文化の居酒屋は男女の場であってゴロツキがうまいもんを食う場ではない事もそのときはまだ知らなかったのですが、居酒屋のたっかいメニューを片っ端から集めて食卓に並べ、そんときも俺たちは食べ残しはせず、酒を飲んで食っていたけどオロヤンが「こんなにおかずがある!俺酒飲めへんねんご飯頼んでいい?」と言って居酒屋のご馳走を箸でつついてつましく白米を食っていたことを覚えていて。

 まあ、月並みに「食べ物の恨みは恐ろしい」という平凡な落としどころに他ならないわけですが。今日の言いたいことは以上です。やりくりしているから貯まっているお金を指してカネを持っていると公平を訴えて借りてご馳走食うってどんなやねん!と。


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