
順調に進めている。9階への階段でレベル10。ワンポイントとして、矢とデメリット草があったら草を温存しがちだが、持ち物が圧迫されるケースを考えると大抵の敵が1発の矢と打撃で倒せるレベルの時に草を大事な時のために持って置くというのは杖などに比べて空振りリスクがあるので、2歩以上離れているケースで使うことが基本なわけで、そうすると草を消費して矢と杖をまとまった状態で温存できるし「しあわせのたね」と「弟切草」くらいを識別出来ていれば、草から飛び道具として消費してゆく方が正しいという最近の結論。
そして今回に置いて「しあわせのたね」を3本引いており、未識別で2本のときに1本飲んでみて識別、そして祝福の壺に入れて2レベルアップ、のちにまたもう1本引いたけど飲んでしまってから二つ目の祝福の壺としんぴの草を引いており、これ上手く使ったらもっとレベル上がったかもナーと思っても持ち物満タンで9階。モンスターハウスも攻略して、レベル上げもして敵がアイテムを落とすこともあり、普段の9階以上に識別が進んで、けどこれくらいが毎回ペースになると上達なのかもなと思う。
まあ9階以降となると負けたことも多くネガティブな感情もわくのだが、何となくトルネコ3を掘る間というか休憩してタバコでも吸いながら生死観を考えていた。成功とか勝利とか成長とか、昔よく人生良いことがあったら悪い事もありプラマイゼロであるみたいな価値観を人が語るのを聴いたとき「どうかなー」と思い、最近では「運は掴めるもので心がけがある」みたいなプラス思考よりもうちょっと進んだ哲学が語られるが、どんなに良い人生も最後には終わりを迎えるわけで、臨終はゼロなのかもなと思う。そうすると不幸な人生はその終わりがゼロになるとマイナスがゼロになって天国かも知れない、最後はラクになるという考え方。けど上手く行って楽しい人生なら、終わるのが怖いようにも思う。それが順調なトルネコ3ほど深い階に行くのがドキドキする。ドキドキというほどではないけど「これくらいでもう終わっておきたいなぁ」みたいな気持ちになる。
これは俺が19の頃に日本橋のゲーセンでバイトしながら、専門学校に行くカネを貯めたことは再三ブログで主張してきたが、全貯めではなくゲームソフトを電気街の低価格でガンガン買っていた。「面白いものは無いか?」という風にアテモンでも引くように980円から3980円くらいのゲームソフトを引きまくり、そして30代くらいで「結局スーファミのストIIターボとソニックウイングスくらいで良かった」とか言い出して、それからまた貯金して、龍虎の拳2と餓狼伝説スペシャルも買った。RPGも何本か買い、中盤の楽しいところで置いておいて「結局最後までやってしまったら終わる」というのが物悲しくて、最後まで見届けないでしまってある。
その点、トルネコ3異世界に何度も挑むのはやっぱ最初の頃から強くなってゆく楽しいところを何度も手短に楽しめるからで、99階まであるからとかではない。20階までしか行ったこと無いわけだしな。だから25階くらいで終わる最初のトルネコとかシレンがほど良いゲームで思い出として残っており、代替品としてトルネコ3をしてる。
さて、飽きずに諦めずにこの先何回やるつもりなんだろうなとは思いつつ、向かったら今の1回を慎重に大事に遊ぼうと。マンガの積読はあと僅かで、たくさん読もうとしている人を見ると「凄いなよくそんな読めるな」みたいに思うが、俺よりその人が少し若い事を考えたら、俺もこの7年で色々読んでゲームもして、そして満たされてきて興味が薄らいできているのだとも思う。年上の人に「良くその年まで同じことするよな」とも思う時があるが、色々な創作に触れるという体験で自分の内が広がるとしても、今の自分の気持ちってその世界の内の1点から記憶の世界の「どこか」を見つめているわけで、まあたくさん読んだ人の世界が独特ではあるかもだが、そうではなく学校の勉強とか数学とか論理学みたいなもので、間違っているかもだけど確からしいとされている共通認識みたいなもので創作はそれはそれで実際に役に立つ確からしい筋の通ったことを探そうとした時に創作が回り道に思うこともあったりする。
けどまあ、近道的に数学の深掘りから役に立ちそうなことばかりを追うのはそれはそれで1本道で周りの景色が無であるかのような、虚しい道にも思える。創作で景色が彩られている方が、旅としては楽しい。そうすると人生を豊かにするのは余暇と想像で、あんまり忙殺されるのは御免被りたいとも思っていて、仕事をやめる動機しかない。
まあ仕事は仕事でそれを通して社会理解と経済力が備わって、人生を豊かにしてくれるというケースはあれ、最初から金持ちなのにカネのために無味乾燥の作業に従事するのは何か違うよなというような方向感覚があるのよ。働く人からしたら勝手だろうけど。
まあ、今はひとりなので、会社にいたほとんど話した事のないひとりひとりでも、もっと興味を持ったら面白い人だったのかも知れんなとは思いだすものの、職場でそこまで仲良くなる機会の無かった人について残している余韻が美化されているのかもな。そんなことを言い出すと街行く人や電車の乗り合わせでも無数に人はいる。人として交流する機会は無いのだろうかな。それでSNSが爆裂に流行っているのだろうな。
トルネコ10分を出汁にどんだけ長文書いてんねんという話ではありますが。既にトルネコ関係ないし。タイトルとかも変えた方が良いまである。けどこれで良い。