「願えばなんでも叶う」って命題をもちっと考えよう

 俺は「南妙法蓮華経と祈ればなんでも叶う」と創価学会の布教に熱心な人がはじめは嫌いだったけど、家に布教に来たエホバの証人の信者を親父が玄関でずっとからかっていて、まあウチの親子は似たり寄ったりで俺はミイラになったミイラ取りなんですよ。

でも、あきらめムードより創価の人のほうが活気を持っていて素敵に見える人もいるんよね。そして関係のない人から見て活動員の勧誘がしつこいから組織全体に対して悪いイメージを持ってしまうというのも理解できる。

実は創価学会で活動していた時があって、明確に退会届を出したわけでないけど活動はやめて、選挙の時は比例区だけ公明党という距離感で暮らしています。なんかね、創価学会の会員数自体は減少傾向らしいけど、大阪に住んでた時にマンションの近所が都市開発から漏れた商店街や古い住宅地で創価の人めっちゃいっぱいいたんよ。郷に入れば郷に従えで、実家に帰ってくると創価の人もいるけどそうでない人が多いから創価の人もおとなしくて、お宅を訪問した時にはお仏壇にお経を読みます。

そんで「南妙法蓮華経と唱えれば望みはなんでも叶う」を命題として「折伏をすれば功徳が出る」と「選挙活動をすれば功徳が出る」に対して「勤行で何でも叶うなら折伏は不要ではないか?」というツッコミを入れたことがある。誰かに創価学会に入ってほしいならそれを望んで仏壇に祈れば叶うのではないかと。大阪にいたときは毎日毎日創価学会の幹部の人と建前について矛盾が無くなるように問答をしていました。

そして、ある時に自分が熱心にお経を上げていると先から創価学会だった人が涙を流して泣き出したことがあったり、公明党の講演会に行くと勧誘に来ていたはずの人が欠席で偉い人が「みんなもう、そんなにやる気ないだけなんですよ」と本音をこぼしたり。

創価学会の人はお坊さんのようにお経を上げてお布施をもらうのではなく、自分の家の仏壇に自分でお経を上げて、それだけでは何も叶わないことが分かっているから、願えば叶うということを示すために頑張るタイプの人がいるんですよね。お祭りの「あてもん」に「ホンマに当たり入ってんの?」と言うとあてもん屋のおっちゃんが抽選箱に手を突っ込んで袖から当たりを出して「ほら、当たり引いたやろ」と言うように「ホンマに願えば叶うんかい?」と疑う人に対して歌手になったとか俳優になったというような夢を叶えた人を会員から輩出することを「実証」と呼んでいるんですよ。

これは「宗教なんて非科学的だ」という批判に対して科学的とは客観的、論理的、実証的であるという定義から、客観と論理をすっ飛ばして目にもの見せてやると示した実証なんですよね。

そういう頑張りを見ていると「なんでも叶うなら宇宙戦艦に乗ってワープしたい」とか「阪神ファンが勤行して巨人ファンも勤行するとどっちが優勝するの?」とか、命題自体を覆すようなツッコミを入れる人がいるのにはちょっと待てと。まあ分かるには分かるんですよ。

でも、そういうことではないんですよ。

「宇宙戦艦に乗ってワープしたい」って言っても、本当に作って乗せられて「帰りの燃料は無いからな」と言われたら「やっぱ行くのやめたい」って言って「お前ワープしたいって言ったやろ」みたいな子供の喧嘩みたいなことは創価の人はしないんですよ。宇宙戦艦なんてまだ史上には無いわけで、「はいはい、スタートレック宇宙戦艦ヤマトが好きなテレビっ子なんやね」という風に解釈して「部屋でケーブルテレビでもブルーレイでも見まくったらええんやで」という風に願いの形を変えていくんですよ。

だから、勤行を何のためにやるのかというと願いの元々の形は何であったのかということを自分を見つめて考え直すということじゃないのかなって、この部分は日蓮池田大作の言葉ではなく俺自信が活動して受けた功徳のひとつの形なんですよ。

何でもかんでも夢物語を語ってそれが叶うってことでは勿論ないんですけど、生まれて行きてきた間に他の人を羨んで「ああなりたい」と思った場面を再現することくらいは出来るんじゃないのかなって思います。