俺は車に乗るのが怖いと思うタイプの人間になった

「交通戦争」と呼ばれた時代があった。

昭和30年代、自分が生まれるより前だが日清戦争での日本側の死者数よりも国内の交通事故死者のほうが多いという凄惨な過去があったようだ。

現代日本では交通事故を起こすと轢かれた人が死んだとして、運転手も傷害罪で長期懲役となり、人生を棒に振ることになる。本来、車の中にいるわけでドライバーは大型対抗や崖っぷちでもない限り安心してアクセルを踏めるものであるが、近所を車で走ると歩行者が多く、万が一轢いてしまうとと考えるとかなり慎重なドライビングが要求される。

対して、歩いていると交差点で車のほうが止まるのが普通である。俺は歩いているときは基本的に安心している。考えてみればおかしなことで市中には車はわんさと走っているので誰かがふと殺意に芽生えたとしたら、いつでもアクセルとハンドルで自分は死んでもおかしくないのである。

この強弱の差が法と倫理によって完全に同等または逆転と言っても差し障りのない状態が戦争のない理想の社会というやつなのであろう。現代は過去の理想なのだ。

それでも俺の自意識はまた別の理想を追い求めていて、現実の認識よりも理想とのギャップに苦しみや怒りの感情を持つこともしばしである。

日清戦争日露戦争のあとには交通戦争があり、俺の世代は受験戦争の経験者である。貯蓄して高齢になってから若い時の自分にカネを貸す行為が借金であるなら、受験とは労苦からの開放を賭けて思春期を犠牲にする闘争だったと振り返る。俺は第一志望の都内国公立に落ちて、フリーターをした時にバイト同士のシフトの取り合いや罠の掛け合いに嫌気が差し親が進学と就職をすすめた意味を分かった気になった。専門学校に入学し、そこで受験戦争に巻き込まれずに伸びやかに育った2歳下の同級生に囲まれ、周りが遊んでいるところで高専から来た谷周太郎と高順愛らと国家試験の合格を競った。100人ほど入学して6人の国家試験合格者。

しかし、その先に待っていたのはユニオンシステムで組み上げた構造計算ソフト「性能一貫」の社内プレゼンで担当である出力部をわざと低スペックのノートパソコンに入れることでハングさせるという課長の罠だった。

高校時代に知り合った別の専門学校を中退した農家の子供は今でもネットゲーム「ドラクエX」で座敷で遊んでいて、受験とは本当に労苦からの開放を賭けた戦いだったのか。戦って勝ったものが開放されたわけでもなく、ただ巻き込まれなかったものが勝者ではないか。

車に乗ると人を轢いてしまいそうで怖い、という感情が芽生えるのと同様に「良い学校を出てるんだ」と人を持ち上げてハシゴを登らせてから下からハシゴを外すような罠はまだまだ世間にいくらでもあり、なったことのない立場を羨む幻想を巡った闘争なのだろうと今では思うのだ。

次の世代に仕事をどうやって引き継ぐか

老害とは組織のトップが高齢化して健全な世代交代がなされないことである。

しかし、俺はそれがそこまで悪いことだとは思えなくなってきている。

例えばバンダイナムコゲームスの宮河恭夫さんは御老体である。

ガンダムを作った富野由悠季やメカデザインの大河原邦男も高齢。

スーファミドラゴンボール超武闘伝が出た時はクソゲーだと思ったが、案外それで結構遊んだもの。超武闘伝2が発売された時は前作はメモリが少ないせいで出来ないことがあってそれを追加したらゲームが良くなると考えられたようだが、2も3も超クソゲー

俺が京都の大手ゲームデベロッパーで働いた時はRPG大手の下請けであったが、格闘ゲームが好きなことを上司に話してその頃にはストIVくらいまで出ていたが、振り返って超武闘伝の何がいけなかったかという話を問われマクドナルドで語った。

今でもどういうカラクリかは分からないが、ドラゴンボールのキャラでゲーム開発がギルティギアアークシステムワークスという企画が実現して、古いアニメであるにも関わらず大ヒットとなった。

組織の世代交代がある種健全であったなら、組織の知識レベルや技術レベルが世代交代によって頭打ちになる部分があり、上層部が固定化してパンキッシュに現場仕事に打ち込む人がいることでもたらされる発展も俺はあると思う。

俺自身、下積みが長く技術的には既に先輩や上司を超えている自負があるのに役職は低いままということを経験して、自分が上になって下を育てるような立場に変わりたい、下が欲しいと願っていたことがあるのだが、下がつかないせいでレベルアップできた部分はあるわけだし、それが果たして幸福かどうかはさておき、よりよい製品を生み出す原動力にはなった。

もちろん、健全な世代交代が進んでも人類史が発展の一路をたどっていることは恐らく間違いないし、ある時代を見た時に得意な点があるから現代が不健全でそれを言葉にしたものが老害であることは分かる。

例えば、ドラゴンボールの面白いのがもし出なくても、その分だけ鬼滅の刃のゲームがもっと面白くなっていたかも知れないという可能性はある。

何というか、組織の上層部のことは分からないので、健全と不健全を見分けるだけの情報は俺は持たない。自分の努力に対して評価を受ける人が自分本人でなく雇用者やクライアントであることなんて今では当然に思えたりもする。

それでも、自分が評価されたいと思う前に先達の仕事を見ていくと、なかなか自分が既にそれを超えて後進に教える立場になるにはまだ早いと思わせられる部分に少しづつ気付いてゆく。

周りを見れば結婚して子育てを終えた世帯もいるわけだが、駐車場にクルマを止めた時に頭の悪そうなガキが口を開けて自転車を漕ぎながらこちらのクルマの中をジロジロと見ているさまを見て、自分を育ててくれた両親にどこか感謝の念がわいた。幼い頃に絵本の読み聞かせをして、中学受験の時には母親は勉強は分からなかったが見張りとして諦めずに俺の勉強部屋でずっと勉強しているさまを監視していた。

パソコンを買ってもらうのが遅かったこととか、俺がソフトウェアの業界で遅れていると言われたことをどこか親が持たせてくれたのが遅かったことに責任転嫁するような考えも持ったことはあるが、少なくともあの自転車の子供とは育てられ方が違ったように思えて、良いほうだと思ったのだ。

健全な世代交代というのはともすると現世を来世のために投資するような行為なのだ。

そう考えると、俺は自分の残りの人生を自分のためでなく子供のためとか広く世界中の人の未来に向かっての豊かさみたいなことに使えるかと考えると、自分も年食ったら老害になるのだろうなと言う気はしている。責めようがない。ただ、いま生きている環境で生きるのみだ。

どういう基準で測るのはかともかく俺が世界一の男になっても田舎住みという現実を

都会で恋愛をしたことがある。しかし俺は田舎町つまり奈良県大和郡山市という人口8万人の大阪京都の郊外に実家があった。俺が知っているのは爺さんの代からで金持ちというか地主で恐らく名字に「宮」が付くので旧貴族なのだろうと今では思っている。しかし、既に度重なる相続での分配と母親の浪費で金持ちと言っても家賃暮らしで働かなくても生計が立つという程度であって一部上場企業役員とか上級公務員とかほど年収があるわけでもない。

だから、都会で出世を目指して日々働くのにどこか疲れた俺は家の財産を当てにして楽な暮らしを求めたが、大阪住みの彼女は東京に憧れていて、近くにスーパーがあって近鉄もJRも通っていて、ショッピングモールもあってと説得しても「田舎はイヤ」という。岸和田育ちだから地方の実情を知らないわけではないと言うか。

最近、通っている病院の先生が女医さんに代わって、看護婦さんも何人か入れ替わったのだが、件の彼女の前の彼女は俺がソフトハウス勤務の時に「どうせ会社にも女の人いるんでしょ」とこぼしたことが何度かあった。確かに1階に事務職がひとりと3階に広報がひとり女性だったが開発部は全員男性で、他の階の人間は滅多に会わず、華々しい広告業界のようにみんなオサレで社内恋愛が複雑化しているようなドラマ的な会社ではなかった。だが、信じてもらえないようだった。

考えると、俺はストリートファイターIIの世界一に憧れていて、その先に結婚を夢見ていた。勝ち取るものだという考えがどこかにあった。北米中部ネブラスカのゲーム大会で勝った時には俺が負かしたアジア系のレミー使いの彼女と北米チャンプの白人系のふっくらした女性を右と左に添えられて記念撮影したが、結婚には至らなかった。

だんだんと考え方が変わってきて、相手の彼女にとっても旦那が世界一になったとして、住処が田舎町でスーパーで並の食材を仕入れ、毎日食事の支度をする生活と比べたら、東京で会社づとめをするほうが旦那がどうであれ、自由に浮気が出来るわけでメリットは結婚よりも多いのだろうなと思うようになったのだ。それで前の彼女が実際には居もしない「会社の女性」に想像上の嫉妬をして、破局したのもなんとなくは分かる。まあ俺も風俗とか行ってたけど。

まあ、ホンマに過疎などの深刻な問題を抱えた地方の人からすると大和郡山は便利な市ではあるのだけれど、東京と比べて田舎だと俺が卑下してしまうのにもそれなりの理由がある。

俺はどこか人間関係が煩わしく、ソフトウェア開発は家でひとりのほうが成果の奪い合いもないし捗るし気も使わなくていいと思うのだが、たまに会社に居た頃が懐かしくなる。それは決してオフィスビルに閉じこもられたいとか毎朝満員電車で通勤したいなんてことではなく、田舎の人間関係と比べて結婚や不倫というほど大げさでない都会の流儀のおやつのような恋愛をまた久しぶりに楽しみたいのだろうなと納得するのであった。