個々人の幸福追求が干渉し合う世界と主観的幸福を説く宗教と

ゲーム理論の代表である囚人のジレンマを考える時、無為に出獄が幸福だと考える。

協調すれば両者短期間で出獄できるわけだが、片方だけが裏切ると無罪となる。

この時に裏切り合うと最も悪い結果となるわけだが、主観的に友を信じる幸福は考慮されない。つまり一方は信用よりも出獄を求め、もう一方は出獄以上に信頼を求めている場合において、ゲームの勝者は裏切って出獄したほうがWinとなるが、問われている罪状以上に仲間を裏切る行為を背徳だと感じて協調戦略を取る人間の主観が、裏切られていたとしても信じて獄中で待っていることを良しとしているならば、Win-Winは成立する。

基本的に宗教家と信者はこの関係性で成り立っているんだと俺は考えている。宗教家とか政治家だと実感がわかなくとも、アイドルとキモオタの関係で舞台袖ではアイドルが裏切っていてもステージでは満面の笑みを観客に見せていて、キモオタがそれで幸福なら。反対に客キモいではなく全てのお客さんが大好きみたいな天然系アイドルがいた場合、アイドルと事務所での軋轢が予想される。いったいどうなればWin-Winになれるだろうか。

個々人が自身の究極的な幸福追求をしあって競争するという社会はどこか矛盾を感じる。幸福追求の結果として、経団連とアルバイトのような境遇の差が生まれている昨今に於いて、アルバイトまで一旦落ち込んだ人間が究極の幸福を得るまで競争を逆転勝ち出来るだろうか。

それを考えさせないためにプロスポーツの勝者に億単位の賞金が与えられるわけだが、その開催団体が不動産や株式などの既得権でアルバイトやスポーツ選手が勝手に競争をして寝ていても毎年億単位の収入がある、みたいな社会構造が隠匿されていることだろう。それとて、働くことに生き甲斐を感じている、お客さんの笑顔が幸せみたいなフランチャイズ飲食店教育みたいのが宗教的に機能して、バイトは仕事して得た給料から好きなロックバンドのコンサートに行くみたいに玉突きが果てしなく連鎖して、みんながそこそこ幸福を感じられているなら、それぞれの考え方を完全に擦り合わせて唯一の正解となる思想を求めるというアプローチは多分間違っている。

詰まる所は生態系エコシステムのように食物連鎖が全生命で循環していれば、思想を持つ人間だけが悩みを持っていて、それらは完全理解に至らない発展途上というか片道通行の論理で袋小路に入っているとでもいうか。外形的に幸福状態を定義するゲームの中で、対外的には負けの役を取っていても、それを勝ちだと思える笑われて金を取るお笑い芸人のメンタリティが騙されでなく騙しになっている時に、Win-Winが成立しているように思えるんだ。

このWin-Lostの関係は、内面的に幾重にも拗れる可能性は否定できないが、拗れ具合を全て紐解いて画一的にするのでなく、ジャンケン的な巴構造にして調和を取る状態を秩序とするなら成立しうるだろう。

つまるところ、思想に於いて正しい状態というのはその人の置かれた環境と一体となって初めて正しいと言える。つまりガンダーラの西に生まれたものは東を目指し、東に生まれたものは西を目指す地図上の位置関係のようなものが個々人に於いて違っており、世界の全図が携帯端末から見て取れるとしても、内的な方向性になった時にその進路を決定できるのはその人のみ。客観的幸福の授与がありがた迷惑になる人もいる。

多くの人と意見をかわすことで俺が生まれてから今までに築いてきた幸福感は幾重にもひねくれて矛盾もしていた。それを正す過程で、本来的に何が幸福か定義すると、自ら進んで不幸を選び取るような性質をしていたことだった。それは6人家族の生まれで家族の調和を取るのには上手く機能していたが、外社会において幸福を勝ち取るには不適合なプログラムで、利己的な幸福追求を始めてからほぼすべての外社会的ロジックは敵を作る方向となった。

振り返ると、信心深く協調戦略を求めながら裏切られてきたのだろう。協調戦略を成立させるには、もう一方の囚人に対する働きかけをする他ない。それは看守にしか出来ない。

人には裏切られるものだと考えて最適戦略を考え始めても、打つ手なしだ。

もっと現実的なモデルケースを考えると、囚人のジレンマよりも複雑なはずなので、何らか勝つための手段はあるとは考えられる。それでも。獄中で待つのと厳しい社会に抗うとでは獄中で待つほうが楽であるというような慣れが俺の根底にはある。ウメハラに成れなくても部屋でテレビが見られて時々プレステが出来れば充分。みたいな。

今日のカプエス2(Cガイルでオールサバイバルを頑張ろうかと)

Cガイルでオールサバイバルを頑張ることにした。今日の成果は29連勝。

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最近になって「努力は裏切らない」という言葉が女子ソフトボール銀メダリストの書籍のタイトルになったことから流行ったことを知る。銀でも裏切られていないと考えるというのは新鮮だった。俺も全国大会に出たり海外遠征して結果が出たことはある。その結果より世の中にはもっと金メダル常連みたいなすごいやつがいて、それとの比較が苦しかった。

気の利いたエイプリルジョークも書けないのが申し訳ないが、29勝でも終わるとどっと疲れている。ストIIXの師匠ハマちゃんも腕が落ちたと言うより疲れて負けることが出てきたという話を数年前に聞かしてくれたっけな。まずは健康、そして生活、生活の安定から来る余暇、余暇を楽しむための娯楽、競技というのはさらにその先に積み立てられるものだと思う。

競技から1歩引いてみればそこには余裕を持って勝てるコンピュータ相手に勝ち抜き戦をするという娯楽があるわけだが、その娯楽に退屈して勝ち抜き数を競うという競技に発展させようとする気持ちもあって。

miyazawa.hatenadiary.jp

今日はヘロヘロに疲れたのでチャレンジは終了して過去ログ貼っときます。去年の今頃。

なんかね、もともと48連勝も勝てっこないと思っていたものがある日「出来る」に変わったんだよな。その時の変化の感覚は思い出せないけど、それから負けても負けても「ダメなとこ洗い出して克服していけばいつか出来る」と思える。その挑戦のモチベがまた自分に宿ったことが喜ばしい。少なくともゲームしてる間と終わったあとの反省の時はシンプルなゲームのことで雑念を断てるから、その感覚に瞑想で得た悟りとは違うかもだけど、特殊な精神体験が出来ることは確かだと思う。やる気とか夢中みたいのでなく、何か例えるなら瞑想という。

実際的に考えるとパチスロ回したり風来のシレンで最終問題に潜ったりを繰り返して、運を極限まで排しようとすると収支のパラメータがプラスに転化したり深い階まで潜れるとか、そういう運ゲー格闘ゲームでやってるだけなのかも知れんが。コロナウィルスの心配ばかりしているよりはゲームしてるほうが落ち着けるというか。

運転資金のやりくりをしていたり医療に従事している人からすると家でゲームしてるとか申し訳ない部分もあるけど、だからといって出来もしないことを呼びかけて回ったりするよりかはおとなしくゲームしていよう、という感じか。