F-ZERO

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F-ZERO

ゲーム音楽を語る上で外せないF-ZEROのMUTECITY(ミュートシティ
振り返ってという評価基準のいいかげんな所は、
生で体験した時はモノを知らずに独善的に良いという感想で、
振り返る時には当時に知らなかった様々の知識武装をしていること。
いままでの知識を結集してF-ZEROを褒めることもできるが、
やっぱりF-ZEROに傾倒したのは他のもの知らなかっただけだよな。
MUTECITYの音源を探してアレンジの効いたMIDIを何本か聞いた。
懐かしむためには生音のほうが記憶を鮮明に呼び起こすものだが、
客観的になろうとするとアレンジも何度か聴くと耳になじんでくる。
そうしながら音楽性が変わっていって売れなくなる音楽家を思う。
作曲家は新しい音楽を作って変化を求めているけれど、
聞き手は音楽漬けでもなく同じものをまた聴きたいと願う。
音楽を自分で作る事をしていなければ昔の音を求めたかもしれない。
F-ZEROが出たときそれはゲーム機の進化を体感させる衝撃だった。
しかしそれは過去の事で遡って経験する事はできない。
スーファミの頃の面白かったゲームをWeb技術でもう一度作ろうと、
びっくりするような額のお金が動く企画がいっとき持ち上がった。
そうしてF-ZEROをもう一度作ってもその感動は起こらないだろう。
コンピュータの限界でピコピコした音しか生み出せなかった時に、
スーファミの出す音はゲーム好きの少年たちを熱狂させた。
着うたの鳴るケータイから16和音の音楽が鳴っても感動は生まない。
そこでユーザを惹き付ける仕事を音楽家が担うなら。
音楽家もその存在感を思わせるのは難しい時代になったのだろうな。