苦しい

強迫性障害からの脱出

強迫性障害からの脱出

自己矛盾が行動意欲を奪う。
何もする気が起きない。
自己矛盾とは

論理や実践において、自己の中に自己を否定するものを含んでいること。


どうして僕にはそんなに自己矛盾がたくさんあるのか。
よくよく考えると、論戦における人格攻撃による心の傷が掘り返される。
人格攻撃、人身攻撃とはこうだ。

人身攻撃(ラテン語: ad hominem、argumentum ad hominem)とは、ある論証や事実の主張に対する応答として、その主張自体に具体的に反論するのではなく、それを主張した人の個性や信念を攻撃すること。論点をすりかえる作用をもたらす。


橋下市長が政権を握って週刊誌に生い立ちを叩かれる。
政策の否定なら論戦になるところだが、論戦では勝てないので親族を叩いて嫌がらせする。
そういう事が人格攻撃だ。


子供の頃に親と話をして、納得のいく説明を受けた記憶がほとんどない。
なにか口喧嘩で自分の立場が悪くなると、父親
「おまえはまだ親に飯を食わしてもらっているにのに偉そうだ」と言い、
働くようになると
「この家はわしの家だ、俺に文句を言うなら出て行け」
本当に家族全員出て行って数年経ち、病気になったら
「帰って来い」(ここは人格攻撃とは関係のない話ではあるが都合が良い話だ)


母親は僕が何か言うと
「ねえ、何の本にそんなことが書いてあったのよ」
子供が自分で考えて言葉を発するという事が認められない人だった。
人だった、と過去形になるのは生きてはいるが違う男と離れて住んでいるから。


また高校の同級生で僕は1人大学を出ていない。
大学で勉強して論戦で言い負かすなら分かるが、論戦で負けると
「君は大学も出ていないのに、俺は薬学部だぞ」
薬学部なら、なおのこと論戦で負けては行けないと思うが。
(これは人格攻撃というよりは権威主義的というべきか)


ゲームセンターでプロレスゲームをやって負けると、
参りましたとは言わず
「コイツおもんない」(面白くない)


よそで人格攻撃を受けてしまうのは仕方ないにしても、
唯一無条件に自分を愛してくれる存在の親に人格攻撃を仕掛けられてきた。
僕の判断は僕が導き出す論理に寄るものであるはずなのに、
論理的に正しくとも、それを実行に移すと人格攻撃を受けると言う体感から、
僕は物事に対する判断の基準をぐらつかされ、結局何も行動に移さない。


テレビを見て、ごろごろする。
寒いけれどストーブを入れるほどでもなく、布団にくるまる。
ワープロで文字を打つのは、唯一褒められた事があるからだろうか。


スポーツは全然駄目だったし、絵は多少評価されても食うには難しい。
音楽をやってもダメ、プログラムは仕事として周囲の理解が得られない。


それで何もしないでいても、子供の頃嫌いだった父親が食わしてくれる。
負けておけば、働いてもいないくせに、などという攻撃には来ないものだ。
7人家族だった家は僕と父親だけになって、父親も僕がいなくなるのは寂しいだろう。
親が死んだらどうするか、まだ何も考えていない。長生きを祈る。
相続税を何とかしたら家はあるわけだし、父親がいないと、お勤めに反対する者もない。


年寄りが目の上のタンコブに思う人に、よくこんな言葉がかけられる
「長生きしていたら放っておいても相手が先に死ぬのよ」
商店街の年寄りである陶器屋の爺さんが死んで眼鏡屋の主人が元気になった。
さびれた街だけど町内会の役を任せられて祭りでもあるとマイクを持って話してる。
町中のスピーカから声が出るので引きこもっている部屋にも声が届く。
「うるさいな」と思うが、たぶんあの爺さんも先に死ぬんだ。


堀江貴文ホリエモンが財界でニュースになった時楽天を始め年寄り組が猛反発。
しまいには監獄に入れられる事になった。
僕の夢はそのへんで摘まれて、やる気が削がれた状態になっている。
会社勤めで人一倍頑張ったとして給料はそんなに変わらないし、
給料をもらっても特に欲しい者が無くてパチンコが増えるだけだし、
給料の半分は税金や年金になって、頑張った分だけ嫌いな年寄りに水をやるようなもんだ。


働きたくないとは言わないけど、頑張りたくないでござる。

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