ゲーム理論は意思そのものを変革させるに至るのか

テレビを見ていると幸福の条件は健康と年収と自己決定感でベスト3らしいのだが。
まあ「誰かに言われてそうした」からでなく「自分で決めた」と思っていることには後悔なくやりがいがある。
ヤング心理学的に自己決定と宗教や民話による刷り込みは意思を自分の意思として肯定する前からの前提条件を語っているが、では反対に愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶとき、賢者の判断は自己決定でなく学習によるものだから賢者には自己決定感は無いのではないかという考えに至った。
ちょうど、自分の中に思い当たるところがあって俺はコンピュータ将棋を独学で作ったが、発表の場を求めてその界隈の人に見せてみると「どういうロジックか分からないけど読みが遅いし技術的にも古い」「せっかく来たんだから新しいやり方を勉強して帰ったほうがいい」となって、自分で作ったところは半分そのままに当時の東大将棋と同じアルファベータ探索と駒得の評価関数を自分なりに翻訳して将棋ベーシック改として世に送り出した。
その中でずっと「自分のものなのか自分のものでない習ったことなのか」という葛藤が付きまとった。研究者界隈ではそんなことより英論文を読んで新しいやり方をどんどん取り入れて切磋琢磨しているのに、俺は読んで分からなくても道具としてそのまま使うということに抵抗感があって、吸収の速い人ならそれを自分のものにしてしまえるのかもだが、俺には10年分の独学の期間に形成されたエゴがあって最新技術を素直に取り入れることが出来なかった。
これは最近毎日1回遊んでいるカルドセプトリボルトでも、ゲーム理論とか試算で出た結果をゲームに反映して勝っているのだが、これがなんとなく歴史の偉人に「やってもらっている」的な感覚が付いて回る。
この感覚が拭い去れて自分の考えが偉人の考えそっくりそのままに自己投影出来る人ってどのくらい存在するんだろうな。そのあたりの咀嚼に掛ける時間こそが俺にとって学問を経験に昇華させるための過程として不可欠で、おそらく出来たら辞めとか勝ったら辞めでなく延々と研究する人達は同じような葛藤を抱いているのではないだろうかと察するのだが。天才ってやつはそうではないのだろうか。