フォルツァ2の面白さが分かってきたぞ!

XBOX360の本体を買った時おまけで付いてきたForza2の楽しさが今頃分かってきた。

フォルツァはイタリア語で「頑張れ!」てな感じらしい。何の変哲もないレースゲームという印象だが、一見ヒネリのない印象とは裏腹にドライブシミュレータとしての完成度は異様に高いらしい。縦列駐車や狭路でのすれ違いが苦手なゴールド免許の俺であるがレースゲームは得意を自負していたのにフォルツァ2では思うように勝てない。

おかしい。何でだ?と思っていると今までのレースゲームがデジタルの粗い分解能によってレースの全てがスイッチのオンオフに集約されていたのに対して、フォルツァ2ではハンドルもアクセルもブレーキもアナログで、動摩擦係数くらいしか登場しない簡単なゲーム物理ではなく複雑なシミュレーションで車が走っているので、車に詳しくないとどうして曲がりきれないのかが分からない。

そして、クルマのランクがあって、当初はしょぼいレースを何度もやって高い車に買い替える育てゲーなのかなと思っていたが、ライバルのクルマは自分の車と同じランクから選ばれるので、どちらかというとテクのいるレーシングカーより公道を走れるようなスポーツカーで戦うほうが俺の場合は腕が近くて良いことが分かってきた。

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今日ゲットしたアキュラインテグラ。カッコイイ!

俺の親父は車オタクで家業の文房具屋は継がなくていいけど、クルマ知識は継いでほしいようだ。余生はケーブルテレビでモータースポーツを楽しんでおられるので、俺も実車はともかくゲームオタならクルマゲームくらいは詳しくなっておこうかと。

まあ、ゲーム物理よりは複雑だけど速度が乗ってコーナーに入るとタイヤのグリップが効かないで慣性のまま車体が引っ張られてイメージ通りに動かないのは何となく分かって、ちゃんと曲がりきれる速度までブレーキを踏んでドリフトなど危ないことはせず、それで充分に首位を狙えることは分かってきた。

多少荒っぽくとも一度でもトップになると、相手の方が上手くてもぶつからずに抜くためには大回りを取って抜かないと行けないわけだから、最短距離のライン取りが正確だと多少の腕の差を吸収できるので、慎重に走れば1位をキープできる。

ゲームだし越せるようには出来ていると言ってしまうと身も蓋もないが、そんなもん。

ゲーム機のスパゲッティと現実と虚構を橋渡しする豊かさ

早起きしたので朝から時間を持て余しテレビ周りを整理した。

テレビの外部1がHDDレコーダで外部2がXBOX360という構成なのだがソフトの数とか遊ぶ頻度で言うとまだまだPS2が頑張っている。しかし差し替えは端子が傷みそうだし、せっかくXBOX360があるのにPS2で遊び続けるというのも保守を通り過ぎて復古主義者みたいで考えものだと思ってる。気にしなけりゃ良いだけなんだけど。

そこで、大した工事ではないがHDDレコーダを取り出してHDDレコーダにも外部入力があることを確認してHDDレコーダの外部入力にPS2を繋いでみた。コレもしかして動画撮ったり出来るんじゃね?(いまさら)

んでこれ、HDDに外部2があるからゲーム機もう1台行けるんじゃね?思うが置き場を作らないと不細工になるので、それはまた追々に考えることにした。

そして箱に詰めて仕舞っていたゲームソフトを本棚に並べて音楽雑誌やカードゲームのカタログや辞書類を本棚から物置に移し替えた。

しかし、俺がゲームに没頭していたのは現実逃避であり、ゲーム外の世界はゲームで遊ぶための仮初の肉体であるとさえ思っていた時期もあるのだが、近頃は現実世界にけっこう満足しているのでゲーム世界がリアルになっても虚構としての認識が強くなった。

ドラクエでレベルが上がっても自分が強くなるわけでもないし、ストIIで勝っても強いわけでなく、バイオハザードでゾンビに食われても自分が死ぬわけでなく、エースコンバットで墜落したからと言って(以下略

というか、筋トレしてパンチ力が上がったところで誰彼構わず殴って良いわけでもないという現実の認識の変化がゲーム世界へ没入するから戻ってくるキッカケになったのかもしれないが。

ゲーセンで100円払って遊ぶということが現金という現実でゲームへの没入感を高めていて、その行先にはパチスロがあったわけだ。家でゲームをするのはゲーセンで上手くやるための練習であるから格闘ゲームやシューティングには意味があってドラクエは自分の世界という認識だったな。

それが徐々にドラクエストIIを分けていた考えが改まり、反対に戦争ゲームで現実の認識を改める。戦争ゲームは政治、戦略、指揮、操縦、兵士体験などに大別され、小市民でも司令官になった気分を味わえるゲームもあれば戦場に送り込まれた疑似体験が出来るゲームもある。しかし戦争ゲームに共通しているのは破壊的な方法でしか現実との接点が見いだせていないということ。

で、ドラクエに立ち返ると「クリフトが好き」「じゃあ、私アリーナね」という会話が生まれるキッカケになる可能性がある以上は現実感のない世界を描いたゲームでも共通体験とコミュニケーションの糸口であったりむしろ核であったりする。そう考えると無駄に見えるゲームも生活を豊かにしてるんじゃないかな。

なんだかんだ俺のブログでも読んで文章として面白い人もいるかもだが、ゲームのタイトルが文中にあったとして、それを見たり遊んだりしたことがある人が読むのと全く体験のない人が読むのとでは雲泥の差があるわけで。

遊ばない人に向けていくら書いても百聞は一見にしかずであり、コマーシャルとしての価値が喧伝にあるのかと言われると写真1枚貼るほうがマシかもしれない。

だけど、遊んだことのある人に読んでもらうことで初めて繋がる感覚というのもあると思うので、ブログでやらずにミクシィでタイトルのコミュでファントークしたほうが良いんじゃね?と思いながらも自己紹介してファントークするのは照れがある。

XBOX360を出してきた

諸般の事情で居間のテレビにつないだまま放ってあったXBOX360を昨日に自分の部屋に持ってきて、VHSのビデオデッキを物置に放り込み、テレビとHDDレコーダとPS2XBOX360というデッキ構成にした。

しかしビデオセレクターが無く、テレビの外部1がHDDレコーダで外部2をXBOX360にするとPS2は宙ぶらりんに。まあ、気が向いたらまた繋いで遊ぶかもだし、繋いでないけど片付けずに積んでおくことにした。

どうでも良いが、英語で「ゲームをする」はかつて「プレイゲーム」だったのであるが、「ゲーマー」と言うと本来名詞である「ゲーム」を動詞としているので、後輩に「ゲームは動詞だ!ゲーマーって言うだろ。だから『彼はゲームを遊んでいる』は『ヒーゲーム』なんだよ」と冗談で言うとかなりウケていたが、最近では英語圏の人も親日的に和製英語を理解して「ゲーマー」は英語圏で通用する言葉になってしまったよな。

ギアーズオブウォー2という洋ゲーを遊んでいる。先鋭的な友人の影響で輸入盤を買って早く遊び始めたのは良かったが、ボイスチャットの英語がサッパリわからず途中で放っていたのをセーブポイントから再開した。いつのまにか少し聞き取れる。

要はバイオハザード的なゲームなのだが「欧米に比べて日本は遅れている」とか「欧米ではやったものが数年後に日本で流行る」みたいなネット以前の刷り込みが残っていたんだろうな。今は日本のモノが世界にウケていて、日本が進んでいるという印象を持っている人もいるが、伝統文化でなくサブカルは商業的に作られる文化なので制作にコストが掛かり、コストがかかる仕事であるという認識からゲーム制作などが後進国アウトソーシングされているだけという見方もあるんだよ。

既にゲーム界隈では洋ゲーと和ゲーは良いとこを取り合ってとろけあっているので、自分が面白いと思うものを遊べば良い。古いゲームが好きでも新しいゲームに挑戦するでもいいじゃないか。


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