肉は食って良いけど食べ物は粗末にしないマナー

貧乏だったわけではないが中流家庭に育ち、父親が戦後の生まれで「食べ物は粗末にしてはいけない」という考えが強く、うどんの出汁を全部飲むように西洋料理を食っても皿についたこってりしたソースをひたすらスプーンでかすって食っていた。

そのさまは外食に出た時は品がなく映っただろうし、あるとき友達を招いて家でプリンを出した時にやたら大雑把にすくって食べ残しが多い食べ方で「これが本来のマナーですよ」としたり顔で言った。多少の自慢や嫌味は混ざっているが、良く捉えると教えてくれようとしたんだと受け止めて何も言わなかった。

しかし、その後もウチでは洋食もカスって食べる。モスバーガーの袋にたまったソースも袋をひっくり返してなめる。仏教の無駄な殺生をしないという思想のもと、やってしまったものは残さず食べるという関西流の「始末の良さ」という美学がある。

まあ、簡単な話としてはそういう思想があっても洋食屋では「郷に入れば郷に従え」で場所ごとにやり方を変えて合わせれば良いのだろうが、本来のマナーの持つ意味を考えてみた。

始末の良さはそれはそれで分かるが、西洋のマナーは貴族階級のそれの名残ではないだろうか。世界のマナーに通じているわけでもないが、中華なんかも食べ残すほうが料理人に満腹が伝わって良いと聞く。

だが、俺の家では麻婆豆腐だろうが酢豚だろうがカスって食べる。そして友人が残したプリンのカップを皿洗いするのは俺なので、客人のマナーとして俺に対して失礼だという思いが正しいマナーとは何かという見よう見まねの問題を本質的に考え直す原動力になっている。

京料理は残さず食べやすいが、洋食は栄養価のあるこってりしたソースを皿に残すのがマナーだという。しかし、そうして栄えた貴族階級は革命によって殺されたのではなかったか。日本風に言うとおごる平家は久しからずだ。

何も知らないから人のしていることや昔からの慣習を見よう見まねで行動してしまうのだ。食べ残しはエコではないし、どう食べようと好かれる嫌われるとか上品下品という尺度でしか見ていないなら、今一度考え直してミヤザワ家の合理的な皿の料理はカスって食べるマナーをブログで世界にアピールしてみたい。だって洗うのも楽だし。

愛ってなんだろう、ちょっと分かった気がして

サピエンス全史は読まずに書評の抜粋だけ読んだんだけど、人間が農耕をしているのではなく米などの炭水化物に人間が利用されているというインチキな逆説だった。

例えば人を殴って裁判になった時に「俺がグーで殴ったのではなく相手が自分の拳に頭突きをしたのだ」と言っても、恐らくは通らない。人が意思を持って人を憎み制裁を加えようと暴力に出た。これは外面からは把握できない主観であるけれど、人間社会はそういう風に素直な目線で見た時の「分かりやすさ」で成り立っている。

選挙になると不倫の話が出てくるが、法として婚姻関係を結んだ以外の人と関係をもつことがダメなのか、それとも思想の上で愛を守るために夫婦以外の異性を思うことが許されないのか。これは他者から見て許されないのか、自分の中で許されないのかの違いであって、愛とは他者から見て分かるものではなく、その本人にしか分からないものだ。

法は人間社会の中で互いに守り合うものだが、思想というのは人それぞれの主観であるから、法を説いて物理的肉体的にそう見て取れる犯罪を縛るのか、それとも思想を説いて人に何かを信じ込ませて自発的に善行を積ませるかという両面から見て、思想のない法はあり得ないが、法のない思想はあり得るわけだ。

愛とは法のない思想のようなものだと考えられるし、夫婦以外の人間を心で思うことすら許さないという厳しさは嫉妬や恨みのもとである。

愛とは秩序のための法のない思想であり、明文化が避けられる矛盾のある概念なのだ。

そして俺が怖いと思うのは愛の無いセックスではなく愛の無い婚姻関係なのであるが、それと同じくらい法を元に組み上げられた思想を心から信じて他者にそれを行動として強いる人の群れも怖いんだよね。新興宗教の強引な勧誘をいわゆる普通の人がが怖がるように普通の人が変わった人に向ける気持ちも多数の正義になるから。

例えばそれは結婚した人が会社勤めをしていて、会社に出た旦那がOLと話をするだけでも妬ましい奥さんとかさ。牧師さんが説く愛は夫婦がふたりで暮らしているという条件が社会秩序として満たされているから、法がなくても理解できて機能した。

そろそろ、その道徳が街で生きる人にとっては不便で理不尽なものになっているのだけど、法を守っている人は理解できるんだけど思想で持って愛を守っている人の嫉妬や恨みってのは対外行動として理解できない複雑さがあって、付き合いにくい。

自分の嫁さんが他の男と話をしているだけでも妬ましいとか。そうなると社交は断絶されるわけで、俺の住む田舎の商店街では飲みは男同士で女は家を守って買い物に出かけるって慣習が根付いていて、スーパーに男が買い物に行くだけで異端の目を向けられる。だから自分が生活するためには女と話して買い物をするためのオプションのような妻が必要で、経済的には大丈夫でも社会的に不可能ではないけど不便に思うことがたくさんある。

だけど老齢になるとそれは解消されて、80歳の未亡人ともなると爺さんにモテたりしているようで、愛の束縛はやはり命ある限りのものかもなと例外もあるかもだけど。

プラトニック・ラブ

ケータイの麻雀にハマってみた

麻雀格闘倶楽部の白虎マスターがケータイの麻雀を打ってみた。

f:id:karmen:20171117162310p:plain

61局で放銃2回=3.28%は玄武でもいけるんじゃ?

リーチにはベタオリ

ダマテンは必要経費

としても

役牌哭きは降りるべきなのか悩みどころ。

2人哭いててテンパイでも無いのに振り込みしてしまうのはやっぱ冷静に考えるとダメだけど、どこまでやりこんでも放銃0%はありえないわけで。ただ、考えた分が結果の数字に跳ね返って来る間は楽しい。

3DSの麻雀で1000局測ったら放銃13%くらいだったもんな。コンピュータの強さに差があるのかも知らんけど、そうでない自分の中の確信はあって。麻雀格闘倶楽部のマスターって何人にひとりくらいだろうと考え出して最初に計算したのが初段から4人にひとり昇段すると考えると約6万人にひとり(その4倍とすると約26万人にひとり)だけど、自分がそこまでレアキャラとも思えない。天鳳の九段は30万人に150人くらいだから2万人にひとり。それを確かめるべく麻雀に今以上ハマる気はないけど。

ミュージシャンの米津玄師さんが10年にひとりの天才と言われててそれって地球の人口が70億人、いや地球は違うか。日本の人口が1億人、いや総人口は関係ないか。出生数が100万人だから10年で1000万人くらい生まれてそのうちのひとり。ミスチル桜井和寿から25年くらいかな。そう考えると2万人にひとりでも同い年に50人いるわけか。それくらいなら自分も入ってる可能性あるのかもな。

まだ、もうちょっと強くなれそうな感じはあるんだけどな。


🄫1999-2023 id:karmen