格ゲーをヒューマニスティックに

プロゲーマーに対して直接給料を出しているわけでもないのに「カネもらってんだから」とサディスティックなクレームを出す野次馬ってのを結構見かけます。

会社員でもイマドキ上司の命令がきつすぎるのはパワハラとして守られている部分がありますが、会社内ではなくテレビなんかに出る有名人は視聴者全てにお客さん目線を持たれて辛いだろうなと思うのですが、俺が格闘ゲームをプレイヤーとして頑張っていた頃は、どちらかというと敵であれ味方であれゲームをする者同士、苦労が分かって甘かったという部分を今になって振り返るわけです。

まあ、競馬にしても馬券勝った人がヒートアップしてるのは分かるんですよ。100円であっても。俺はなんばの競馬場が改装される前に一度行ったことがあって、あれはひどいもんです。勝馬投票券を持って払戻金を貰いに行く人の列がいつ暴徒化した他の負けた人に襲われないかと思うくらい、社会のダークな部分を見てきた気持ちでした。券売機がおばちゃんから自動販売機になると、今度はとにかく人がマークシートを書き込んでいるとチラチラ覗き込みに来る人も居て「いや俺だって当たるかどうか分からんよ?」と思いながらも、不思議と覗かれたら隠したくなって。そうするとまた角度を変えてチラチラと。いや普通に3連複を流し買いしてるだけなんですけど。

それで何だっけか、そうだ格闘ゲームだ。カプエス2のPグルーヴですよね。先に書いたように、俺はプレイヤーサイドに立っていながらそれで生計を立てていたわけではないので高校生であったりフリーターであったり専門学校生であったり会社員であったりと、世を忍ぶ仮の姿は年齢とともに変わっていったわけですが、特にフリーター時代なんてのはバイトがゲーセンバイトで掃除や集金以外はゲームを観戦してオフの時間は練習に全て当てていましたよね。スポンサー付きのプロゲーマーは1日10時間練習しているとかテレビで見ましたが、それで見えてくる限界みたいなものがあるんですよ。

ベン・ジョンソンがオリンピックで勝っていた時にスタートの見切りが異常に早くて、その時に審議委員が常人を集めて人間の反射神経を測定して0.13秒が限界であり、ピストルからそれより速いスタートはスターターのクセを読んでいるか見切り発車のフライングとして扱うってルールを作ったんですね。

これを軸に当時いちばん勝っていたウメハラ選手の良く当たるバクチ昇竜拳は人のクセ読みか八百長のどちらかで神の昇竜ではないというのが持論で、バクチを警戒して自分の手癖を見直し、打たれるポイントで我慢してガードという選択肢を入れていくということで、神の昇竜を空振りさせるということを課題として取り組んでいたんですよ。

その意見は結構に浸透して、読み合い重視のプレイヤーよりロジカルに「人間にはここまでしかできない」という天井を想定した攻め方と守り方を研究して、もう出来ないものは出来ないとして出来ることだけ練習するという方式が固まっていたんですよね。

しかし、近頃の格闘ゲームスポーツ化に伴って、カネもらっているんだからもっとやれという風潮は今に始まったことではなく、カプエス2の全国大会でも「何でもブロッキングしたらPが最強!Pが優勝じゃないなんてやりこみ足りないだけ」という野次馬はいたんですよ。

当時は見切りの限界0.13秒を提言していたので「いくら極めようと接近して出される立ちパンチ攻撃(立ちブロッキングのみ可能)としゃがみキック攻撃(下段ブロッキングのみ可能)を全て見切ることは出来ず、Kグルーヴのしゃがみジャストディフェンスならブロッキングのような中下段限定の技でも両方ディフェンス可能なので、人がやるという前提の元ではジャストディフェンスのほうが簡単でゲージ効率も良いから、甘える意味でPとKならKのほうが極まりやすくてラクという見解でプレイヤーが団結して、ストIIIプレイヤーもK派閥になっていったんですよね。

しかし、ジャストディフェンスは確かに簡単なのですが、ブロッキングはガード硬直が無い上にされた側に時間停止があって、反撃の糸口としてはブロッキングが勝るので、成功時のメリットだけで言うとPグルーヴに利はあるんですよ。

そうするとやはりPの極まった試合というか、ブロッキングが勝っている試合を見ないと満足できない野次馬というのは無くならず「ジャストは甘え」みたいな野次が飛んで来るんですよね。もう会社員しながらなんだから許してよ、と弱音は吐けず「人間の反応速度には限界があってPよりKのが強いんだよ!」と虚勢を張って凄んでしまったんですよね。ここは俺個人の失言なんですけど。

それにカチンと来たのか、みんなの知っているプロプレイヤーで無いかもだけど、Pグルーヴで勝つまでやらされている競走馬みたいなプレイヤーがいて、その生活を見ると四畳半の和室にテレビとプレステ2とカプエス2だけの部屋で生活していて、ずっとトレーニングモードで相手に技を出させてブロッキングをする練習だけをさせられているんですよ。何度か、俺の家にも遊びに来てくれて対戦したことがあるんですけど、ブロッキングばっかり狙ってですね、それでかなりのレベルまでブロッキングの精度は上がってるとこまでは知ってるんです。

でも、その仮想敵が俺で良いのかと。誰が彼にそこまでさせたと。色々と考えながらも俺も負けたくないのでそこまでの練習ではないものの家でプレステ2でカプエス2を3年くらいそれだけにしてやりましたよ。

それでお正月の催しとして、獣道というウメハラの番組をネット放送で見たんですけど、兄ケンの昇竜もこたか商店のガイルの前で空振るし、弟子犬のケンといえでヌキ春麗の鳳翼扇を全段ブロッキングはしないんですよね。当たり前ですよ。昇竜拳にはガードしてんだし、鳳翼扇は中足払いからコンボになる時しか出さないんだから。

俺はどちらも見事な試合だと思って見ていたんですけど「何だよ神の昇竜じゃないのかよ」とか「全段ブロッキング見れないのかよ」という意見はもう「そろそろそこらへんが限界なんじゃないのかな?」という白タオルを投げたい側の気持ちがあるんですね。

やりこみの問題じゃなくて、視聴者が求めているものとのTPOの問題じゃないかなと。

お正月の三日目

ブログとツイッターでは元旦に新年の挨拶をしたものの、SNSを色々とやっているとビールにおせちにカニ寄せ鍋とやっている間にすっかり忘れていた世界があって。二日になってから挨拶というのは何とも気持ちが悪いなと。

子供の頃はおばあちゃんが「ゲン」を気にして靴を下ろすのは大安が良いとか、お客さんに羊羹を切って出すのに三切れは「身が切れる」だからダメとか、戦国時代じゃあるまいし、どうやって身が切れるんだと思ったものですが、まあ昨年は宮司さんが身を切られたりしたので、おばあちゃんごめんなさい、気をつけます。

何というかね、ゲンを担げばミラクルが起きるわでなく、物事は上手く行ったり行かなかったりするものですけど、どっちでもない平坦な生活の中でちょっと気持ちいい時ってあるじゃないですか。ゲンを担ぐってのは、そういう何気ない気持ちよさを維持するおまじないみたいな効果はありますね。

コンビニ飯ばっか食ってたら親父がきなこ餅を作って出してくれたり、ライターのオイルが切れているのを振ってどうにか小さく火がつくのでタバコ吸ってたのを満タンにしてみるとブオッと良く萌えて気持ちよかったり。

前にジッポに給油したの12月16日だから2週間持ったのね。まだ綿にどのくらい染みたら満タンなのか分かっていないので「こぼすよりは」と控えめに給油してんのよ。タバコ1日1箱でも1ヶ月くらい持つらしいから、給油が足りないのか親父も使うから倍減ってんのか。

今日は関西では10チャンネルである読売系で素人の「のど自慢」がありますね。歌唱王だったっけか。番宣で聴いてたら、上手い人いますね。芸能人となると見かけと歌と人脈など色々と揃った人が歌っているので、そうでなく一般審査で歌がやたら上手い人を連れてきているわけだから、本職より上手いと思える人もいるんじゃないかな。役者として歌に感情移入している歌手と「これホンマに俺のための歌や!」思い込んでいる人との熱量の差みたいのもあるとは思うんですけど。

こういう、コメンテーター的なこと言ってみたい年頃なの。

安楽、気楽、快楽。頭はラクをするためにある?

「豚もおだてりゃ木に登る」というが、振り返るとプログラマーとしてバリバリやっていた頃の自分は完全に「おだてられた豚」だった。様々な劣等感を持ち、仕事を頑張る姿を演じている自分に新しいイメージを上塗りして内面的な劣等感を隠そうとしていた。だからおだてには弱かった。

そんな俺に助言を投げかけてくれたのは受験や就職に成功したものの、世間から認められている企業の内実を知って失望し、退職しておちぶれているように見えた友人だった。「頭ってのはなぁ、ラクをするためにあるんだ。お前が会社で働いて昼休みに買っている弁当な。あの弁当屋の仕事はお前の仕事よりずっとラクで儲かってるんだぞ?それに最近カネブンバラ撒いてモテているらしいが、そんな女に貢ぐカネがあるんならコンビニでエロ本買ってシコレや。射精しちゃったらどうってことない女だろ?」と。

その時には友人が落ちぶれてやさぐれて妬んで皮肉を言っているのだと思って流した。しかしその言葉がはいつまでも頭の片隅に残り、自分が賢いのかバカなのか、自分で決められず賢いと思って尊敬していた友人が落ちぶれてそんな言葉を吐いただけだとも思えない時もあった。

それで、考えていると「ラク」の言葉の意味がだんだん分からなくなってきた。英語にすると容易を意味するイージーと快適を意味するコンフォートの両方の意味をラクという言葉は持っている。何もしないのは楽だけど、将来のことを考えたりするとラクすることは後のためにならないと子供の頃から信じてきていた。本当に若い時に苦労したほうが後々楽なのか、それは未来が遠すぎて何とも言えない。人生万事塞翁が馬という言葉だってあるではないか。

ふと料理をするのは何のためだろうと考えた。美味しいものを食べるのは快楽だろうか。快楽のために食べる前に調理という仕事をしたほうがラクなのか。なんとなく昼飯に選んだコンビニの肉うどんだが、これをレンジせずに食うやつはいない。マクドナルドのポテトが冷めると食べるのが苦になることがあるが、そうすると美味いものを食うのはマズいよりラクだし、やはり調理の手間を惜しむと食べること自体が苦になるのだという結論にたどり着いた。満腹すると美味いものを食い続けることだって出来ない。

テレビゲームは楽しいかと考えた時に俺は音楽が好きというか音楽が嫌いなやつもいないと思うので音楽はみんな好きだがケータイで音を消してゲームをする人がいるが、俺は音がなくて画面が動くだけのゲームとゲームがなくて音だけなるウォークマンなら音楽の方を取る。

音楽なんてのもその名前に「楽」の文字が入っていてもちろん楽なのだが、演奏するのはけっこう大変な訓練がいる。聴くほうが楽だ。しかし楽器が上手くなったり耳が肥えたりすると下手な音楽を聞くのが苦になり自分でやりたいと思ったりするものだ。そして音楽というのは快と不快の音の流れで快感を想起させる、感情を揺さぶるものだ。どんな音でも同じ調子で鳴り続けていると不快なもので、起伏があるのが良い音楽だといえる。

オンガク・・・いつまでも続くオンガク。坂本龍一の初期のベスト盤に入っていた曲を思い出して探して聴いた。耳に残っているフレーズがあるが、退屈な部分もあり狙って入れた快と不快の波なのかそうでないのかは分からないが、選択肢の少ない頃に繰り返して聴いてそのフレーズしか残っていないということは曲全編を通して好きでないことから、やはりそのフレーズしか良くないのかも知れない。

そうこう考えていると、もともとの「頭はラクをするためにある」という言葉も賢い友人の言葉ではあるが、意味のふわっとした日本語によって幾通りにも意味のとり得る言葉であるから、言葉尻を取って反証を上げてみようなどとするより、伝えたいエッセンスはちゃんと自分なりに消化でき始めていると思うようになった。

たぶんだけど、答えから先に書いてしまったように当時の俺が「おだてられた豚」であることを指摘していたのだろうが、褒める人がバカを使うためにバカを褒めるのだとしたら、そういう人から褒められたいならバカになるべきであり、バカにされたら褒められたと思うようなひねくれた精神を持ち合わせないとラクをしていくことは難しい。

「頭が良い」にも色々あって、繰り返しになるが「ふわっとした意味しか示せない日本語」ゆえに何をどう考えてどう動くかの繰り返しの中で、まず苦から上手く逃れ、快を自ずから作り出せる。そういう方向を見失わずに「何となくそう言われているから」みたいな基準は全てバッサリ行けるようになりたい。


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