「キャラ立て」と「キャラ渋滞」を欅坂で考えてみた

この数日ずっと欅坂46の動画を繰り返して見ている。

二人セゾンの最初の方にマフラーをした子が俺が個人的に応援していた乃木坂のななみんに似てるなと思って印象に残ったので、なんて名前だろうとビデオを止めてみたり歌詞のパートを紹介しているサイトで割り出した。名前付きの集合写真などではどの子だったか分からなかったから。

んで、チェックのマフラーをしている子は二人いる。茶系と赤系だ。柄のないマフラーをしている子もいる。えんじ色と白色だな。他にも見落としがあるかもだが。

自発的に目立つためにマフラーをして許されたのか、衣装として付けているかは分からないが、パートがあるとか服に特徴があるとかはその人の属性を示す「キャラ」として捉えてしまうが、そんな特徴を持たずにパートもなくアップもあるのかもしれんが一瞬で、あんまりカメラ映えしていないように思える子でも、引きのカメラでダンスが揃っていると、ひとりとしての個性でなくグループとしては美しい。

それが坂組なんだろうな。乃木坂46でななみんは浮きすぎていたし、浮いて目立っているから覚えが早くて印象に残っていたけど、ななみんのいなくなった乃木坂46欅坂46にはもうあんまり興味ないかなと離れたこともあったのが、じわじわとその統一感と揃ったダンスでグループとしてハマるようになってきた。

そうなると、個としての属性である「キャラ」にはあまり注目してはいけないのではないだろうかと考えるようになった。中国の経済自由化で世界の観光名所には中国人があふれて、GUやらユニクロという売られている個性に多くの人が染まり、ひとつひとつのキャラは既に渋滞を起こしている。その中で同級生を友達とそうでない人に先ず分けて、その中で決めた役割分担である「キャラ」を超えないように人格を演じて暮らすのって多分もう古くて失われた価値観なのかなって思った。

グループとして揃って踊っている以上は混ぜてもらえないとか目立っているみたいな要素はなくて、センターのような主役の概念はあっても「キャラ」よりより細分化された「パート」を分け合う時代。

偶然だけど、雇用が正社員から非正規のパートタイマーに移っている社会のありようも、そういった人間関係を示す意味での「パート」と同じ言葉だなと。

そういう時代にマフラーひとつでグループの中からひとりを選別しては間違いを起こしそうだと思ったので、少なくとも俺のブログに誰かひとりの名前を挙げるということはしない。

欅坂46にこのごろハマっている。説明のつかない感情を抱いて繰り返し視聴した。

ひとりひとりが何を考えているか考えるとサッパリ分からないのだが、グループとして踊っているのだなということは見れば分かる。何か整理してみるとスッキリした。

エイプリルフールだから言えること

ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズを追いかける女子アナ

その名も「エイプリル」なのであるが、テレビなんてものは万年4月1日というアメリカンコミックス流のジョークなんだろうかね。当たり前っちゃ当たり前。

子供の頃にテレビでTMネットワークを見た時は本気で木根尚登が弾いてると思った。

そして俺はギターに憧れ続けて、しかしウォークマンを聴いて歌を歌うだけで20歳になってしまい、ついに高校で軽音部を卒業した友人からギターを譲り受けて本屋で「ロックギターを弾ける本」という何ともすごいタイトルの本を買ったは良いが、何ともならずにそんなことも忘れて30歳を過ぎた。

いつの間にか俺は子供の頃のもうひとつのあこがれであるゲームプログラマーを目指して業務系のプログラマーをやっていたが「ゲームプログラマーになりたかった」「充分もっと良い仕事してんじゃん」「ミュージシャンになりたかった」「そんなことより安定した将来のが羨ましい」などと飲み屋でグチるたびになだめられると言うか、それは愚痴ではなく寝言として流された。

しかし、そんなにその時の俺が恵まれているなら階段を降りるようにゲームプログラマーやミュージシャンには成れないものかという疑念も湧いてきた。雑誌「ファミコン通信」で一番偉いのは編集長の浜村さんではなく、インタビューを受けているゲームプログラマーだと思っていたし、ギターを奏でてシャウトするロックスターはサラリーマンでも休日にヘドバンしにいく神のような存在であるはずで、いっかいのサラリーマンとか有限会社の社長くらいがゲームプログラマーとかロックスターより恵まれているなんて有り得ないハズだ。俺が間違っているのか?違う!みんなが間違っているんだ!

俺は自己投資として「ゲームプログラマーになる前に覚えておきたい技術」という本を買い、カシオの電子ピアノでファイナルファンタジーの曲を弾く練習も始めた。

そして俺はついに自分のパソコンで3時間で伝説のゲーム「倉庫番」を自作した。

やればできる。ゲームプログラマーになるにはいきなりバトルガレッガのようなすごいゲームを作るために何から何まで極めてどどっと一発で作る日までゲームをプログラムしてはいけないと思っていたが、簡単なゲームからコツコツ作るというはじめの一歩を俺は踏み出した。

そしてピアノをちょっとだけ弾けるようになった俺は調子に乗って小室哲哉と同じシンセサイザーを買い、打ち込み系の付録つきの音楽雑誌を取りためるようになった。

そして、打ち込んだ音源をUSBメモリに入れてシンセサイザーにつなげると俺の部屋からファイナルファンタジーの序曲にとても良く似たドビュッシーの「夢」が響き渡った!

パソコンの小さいスピーカーではなくアンプから鳴り響いた美しいピアノの音色に「だれが弾いてんの?」と近所の人が騒いで「最近シンセサイザーか何か買ったらしいよ」「うそん!こんなに弾けんの?」という噂が立った時に「いや、パソコンで打ち込んだのつないだだけなんやけど・・・」「そんなんしてんの?」「だから何もしてないの!」と反論しても聞いてもらえず、何かシンセサイザーで「やっている」ことにされた。

しかし、俺のあこがれは実はコンピュータマジックトラックパッダーではなくプログラマーとかギタリストという如何にも自分の手でメシを食っている感じのする職人である。

10年プログラマーをやってから、倉庫番をはじめて作った感動を思い出し、まずはギターのチューナーや教本の入った入門セットを通販で買うことにした。

まあ、その後も結構長いエピソードがあるのだが、ギターもかれこれ7〜8年は続けていることになる。いつまでも入門セットではなく速弾きなんかもやってみたい。

しかし、速く弾けば弾くほど、速いピッキングをいうのはどうしても速さと力の関係で強いピッキングになるので強いストラミングになり、弦が強く弾かれてビーンと響いているところに逆手でストロークすると何とも悪い響きの音になり、聞くに堪えない。

これはエイプリルフールだから言えることだが、もしかして、俺の目指しているレベルの速弾きってギターじゃ無理なんじゃないだろうか?

まさか、ギターの音をサンプリングした鍵盤楽器やプログラムシーケンサーで超絶速いギターの連弾が鳴っているのに合わせてギタリストが踊っているだけなのか?

いや、そんなわけないよ。

そんな簡単なトリックが見抜けないような人がライブに行くための4000円もするチケット代を稼ぐ能力があるはずないんだし、何万人と集まってヘドバンとかするわけないじゃん。

そうだよそうだよ。

そんなわけないよ。

やっぱそうだよね。

「ネー!」

というわけだ!

やっぱり俺のあこがれはギタリストなのだ!

だけど、ゲームプログラマーについては40歳まで頑張ってみて、最近ではもうゼルダの伝説ラーになってしまえば良いように気がしてる。グラディウサーくらいには成れても、ゼルダの伝説ラーに先ず成らないとゼルダの伝説を一から十まで1人で作るスーパープログラマーには成れないような気がするんだ。いや最近パソコンのスペック上がってるから何もかもかなぐり捨てて打ち込めばゼルダくらい出来ない気もしなくもないけど、それは出来上がりを先に見たり聞いたり遊んだりしているから、模倣とか習作の域は出ないんだよ。

ギターについても、多分そうなんだ。プログラマー10年目ではひとり分の仕事の分量の見積もりが自分の腕なりで、ひとりでゲームを全部作るなんて到底と思っていたものが、20年目になってみると出来るかもなと思うようになる。

同じようにギターももっと上手くなって良いギターに買い換えて、そして哲学観すらもっとあらためて、TMネットワークは小室鉄哉プロデュースに見えるかもだけど、実は木根さんのギターが全てを司っていて、木根さんのギターが耳から小室哲哉に入って小室哲哉をパペットのように扱って全てを奏でているんだと思えばそうかもしれない。

いやお前、それはいくらエイプリルフールでも言いすぎだろ、ダマされないぞと思うかもだが、人をだますためにはまず自分からと言うではないか。そうなのか?

そろそろ、疲れたきたからやめる。

いやほんと、これはあくまでエイプリルフールだから言えることだからな。

免罪符の時代

中世ヨーロッパでは善と悪は教会で決められていて、悪いことをしても教会で免罪符というのを買えばお金で罪が許されたという。これって現代でも保釈金とかあるわけだから、完全に倫理とお金は切り離されたわけではないよね。

そういう自分も高校の時は反骨精神に満ちていたけど、いつからかお金に操られていた。会社ってのはお金を稼ぐために集まってんだから営業が取ってくる注文は絶対で、ノルマは死守されるべきだ、みたいな。

プログラマーとして働くうちにプログラマーシステムエンジニアをごっちゃにした人から頼まれて仕事をするようになって、銀行業務よりATM作るほうが偉いとか、薬局業務より電子カルテ作るほうが偉いとか思っていたけど、世の中は銀行員の方が機械を作る業者より身分が高いわけで、身分が高いゆえ扱っているお金が大きいところからどうにかこうにか機械でやりますからとお金をとってきているのであって、仕事を肩代わりするのは偉いわけではないということ。

そんで、電子カルテならユーザはお医者さんなわけで、社会でお医者さんは一番偉いけど、じゃあお医者さんはどこからお金をとっているかと言うと患者さんと税金が3:7くらいなわけだからお金払ってんだよと患者さんが威張るってもんでもなく、自分が患者さんの立場になることだってある。銀行員だって預金をしてくれる人には低頭平身に接するじゃないか。そして自分も銀行にお金を預けている。

そういう風に考え始めた時に自分は仕事をしている。だから偉い。という図式が無くなって、仕事をしているとかお金を稼いでいるとか、そういうことは偉くないと思ってニートになってしまった。それを今こうして書き出してみると、お金持っているのが偉いってのは持っているだけで偉いわけではなくて、不倫にしてもソープランドだったらお金で買えてしまう。モノも食料も作らなくてもお金を払えば買える。

免罪符ってのは売ってないかも知れないけど、福沢諭吉の描かれたこの札こそが現代の免罪符では無いのかと。つまり元々の自分は罪深く免罪符がたくさん必要だったが、近頃では「働かざる者食うべからず」という善悪感から見た罪を償うために食費を出すのみである。


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