10進数の使えるC言語、抽象クラスの使えるC++は充分に直感的かなと

先のブログで排中律について触れた。

命題は真偽のどちらかを取り中間は有り得ない。

この考え方がコンピュータと好相性なのか、論理学から論理回路が出来たのか、起源については及び知るところではないが、命題が真偽中間の三叉路を取ることは0と1のビット演算を2ビット使って00、01、10、11の4値のうち3つを使うことで実現できる。

これは捉えようによっては排中律を否定するものではなく、命題を0と1の真偽に捉えた後にさらに別のの命題に捉え直し0と1に分岐するアセンブリコードに翻訳されるわけだから、排中律とは無矛盾であると捉えることが出来るとする反論が考えられる。

しかし、コンピュータの実装上で01-01と取っているものでも、10進数で1,2,3を意味するために2ビットを使って1ビットを無視しているということは直感的に三叉路であり、構文的にもIF TRUE-FALSE IF TRUE-FALSEと続くものではなくswitch-case 1,2,3と書くのが自然である。

これは既に便宜的にC言語アセンブリ言語のアドレスやジャンプを隠匿して数学的に10進数と数の比較によってプログラミングを可能としていることに起因するので、計算機理論というよりはソフトウェアを使った直感であり、既に命題と真偽で持って論考する古典論理学よりは近代的な直感を認める「ゆるい」論理学の範囲に収まるものであると考える。

蛇足になるが、C++Javaでクラス設計を考えている人間と計算機理論やC言語アセンブラでデータやグラフ理論に音声などを取り扱っている人間では同じプログラマでも色々な齟齬がある。高級言語プログラマはモジュール化された計算基礎理論を道具として、対人処理や事務的手続きを抽象的に記述する。対して道具としてのコンピュータの発展にはアセンブリでの基礎理論から離れた考え方では発展性が乏しい。

誤解を避けるために言うと、否定的言及をしたが高級言語の発達を否定する立場を取るわけではない。考え方に壁があるという話。

「コンピュータは0か1しか分からない、従って思考の方法は排中律である」「2ビット使えばいい」

円周率が何億桁か何兆桁か、よく知らんがもっとたくさんか、求まったらしい。

そして計算機で持って実数で持てる数字がいくら大きくなっても無理数になるものが有理数で割り切れる分量までしか求まらないことから、無限というものは存在しないという立場を取る物の考え方がある。

しかし、人間の想像上には無限は存在する。0か1のどちらかでは割り切れないということはコンピュータには出来ないのであろうか。俺は「できる」派閥の人間である。

ちょっとC言語の考え方になるが、数というものを表す時に初心者のC言語では整数型や実数型を使うのが一般的である。整数型の無限は一般的にINT_MAXマクロで表されるビットいっぱいの数であるが、それを実数型を使えば指数でかなり大きな数を表現できる。そのかわりにあまりに桁が大きくなると下の方の桁落ちで誤差が出る。

スペースシャトルを飛ばすくらいの事業でも、そのくらいの桁で十分計算があるのであるが、もっと何光年も先の天体を考えると、もしかすると誤差が大きくなりすぎてダメかもしれない。それでも、整数型や実数型にこだわらず、数に有理数以上の無限とか虚数とかいう考え方を計算機に持ち込みたければ、単に表現するビット数を増やして、構造体として無限フラグ、虚数フラグを持つ数学的に排中律を持たない「まだ求まっていない」というブーリアン値を持った構造体の数を定義して、抽象的クラスのメンバー関数として無理数を扱い、それ以外の部分を有理数として演算していくことは可能だと考える。

ただ、どこかで無理数が計算に絡む時にはデバッグアサーションとして「いまコンピュータも決めかねています」ということを人間にアサインしなくては暴走することになる。

これはちょっと昔のウインドウズにOKダイアログがやたら多く、スマホのアプリでもお金を使うときやログイン認証などでやたら割り込みのポップアップが表示される問題と似てくるだろう。

そういう風に考えていくと、排中律を定義する論理的思考の方法ではコンピュータは自動思考機として機能するのであるが、排中律を認めないとなると決定に他者依存性を持つので書き出したこととは矛盾するが、その思考法のコンピュータはもはや計算機ではなく思考補助装置と化してしまう。つまり公文式タブレットこどもチャレンジみたいなコンピュータに成り下がる。

そしてそれらには一定の需要があることから、そういう装置にも一定の意味はある。俺が考えるまでもなく、黙ってそういうコンピュータプログラムは設計製造されているのだ。

まあ、まだ俺も書きながら考えを保留にしている部分がたくさんあるから、こうして適当な文章が書けるのである。排中律を認めないと唯今的な思想、過去も未来も存在しないという思想に突き詰められるのではないかと唱える人がいるのも分からなくはないが「いま」を認識するのも「い」と「ま」の時間の流れを微積分的につないでいるわけだから、コンピュータも計算の過程で電気が通電していく途中に0と1の間を取ることは有り得る訳で、過去も未来も認めないと画面からLEDが光って人間の視界に飛び込み結果が見えているということも画面と視神経と脳の時間に伴った理解という進行の総括的俯瞰的な意味認識だ。

そう考えると、過去も未来も他者も懐疑的であってもいちどはそう認めてから微分して疑っているようなものだと捉えられないだろうか。素直になると、疑う前にいちどはその実存を認めていて、実在論から出発して頭の中で屁理屈にしているだけの話であり、それは咀嚼なのだ。

そうしてミクロに咀嚼することで、瞬間が密度を増し、世界が分解能を上げた分だけ広く感じるようになるのである。反対に熟考するより体験を増やすとマクロ的に時間が積み重ねられ、広い世界を内包的体験つまり過去としてインプットすることが出来るのだ。

まあ、ここまで話を展開してしまうと当たり前で意味のない近代哲学と大差ないのだが。

右か左かでなく共有という概念が理解できない人がいるのだが

久々にモンハンを遊んだ。今流行りのPS4MHWアイスボーンでなくMHXである。

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MHXが出た頃には俺はカプコンの株主であった。そして、ゲーセンで遊んだかつての格闘ゲーマーは皆友達であって、友達同士でカプコンの株を買い、みんなでモンハンを流行らせればみんな儲かるのではないかと企てた。

だが「そんな大金無いからつまらんゲームやってるんやぞ」という人、「株で儲かるっても100万円が110万円になるくらいのことでしょ?」という人、そしてブログで株を買ったことも公にすると、大バッシングを受けてカプコンの株価は一度落ち込んだ。

株で勝つためには株が上がるまで持ち合いで波打っている時に待たなければならない。俺はMHXを買って遊んだ時にまるでハイパーストIIのような焼き直しゲーを売りつけられた気分がして「カプコンってメーカーはホンマにやる気あんのかいな」と思って売ることにした。

俺が売ってから、安くなった株を買い戻そうとした時に、また友達を裏切ることが無いようにと寿司を食いながら「株を買わないか」と持ちかけた。しかし、そんなことを言うとセールスマンのようであり、友達は怖がって「買わん」と言った。

久しぶりに連絡した。「いまカプコンの株めっちゃ上がってるよ、あの時買わんって言ったよな、俺も買わんかった。けど、今度はまたもうちょっと少額で出来る投資があるんやけど」「あー、そんな話したっけかな、そうそう、俺が子供の頃におじいちゃんがカプコンの株を買っていてー」考えた。ちょっと待て、持っているのかと。

そうすると、持っていてカプコンのゲームで遊んでいて、俺が買おうと言ったから図星を突かれて驚いて買わんと言った。または逆さ言葉で「買わん」は「買う」を意味する地方の人である。あるいは「裏切られた」こうなると表出する言葉そのものの意味でなく表情読みや性格読みに真偽が懐疑で無限に裏返る。

別の見方もある。俺はカプコンのゲームを面白いと思って遊んでいたが、おもちゃ屋やゲーセンはつまらないゲームこそ大々的に広告して売りつけ、面白いものは内々にする。昔ゲーメストライターの編集後記で「ゲーセンでは格闘ゲームやシューティングをするけど家ではロープレとかシミュレーションをする」という話に、ゲーム業界のゲーセン上がりとパソコン上がりの棲み分け、面白から買ってつまらないから売る、あるいは消費動向が違って1万円するからロープレを買い100円だからシューティングをする。

だが長い目で見ると俺はロープレを買って遊ぶよりもゲーセンで時々遊ぶシューティングのほうが総額で高い値段を払っていて、家だからロープレ、ゲーセンだからシューティングよりも家でシューティングのほうが結局金が貯まるのではないかと考え、そうした。

俺はもともと金持ちのボンだが母親が家の金を持って蒸発してから親父と弟と3人でひたすら貧乏暮らしをして、金銭感覚も性格もかなり変わったと思う。

どうして俺が「すべての人の得になる」という考え方を持っていたかというと、コンピュータのソフトウェアの仕事をしていたからである。

まあハードとソフトが難しくても、ケータイ本体とOSやアプリと言えば分かってもらえると思う。面白いアプリがあればみんなでダウンロードすれば良いということだ。そして職はプログラマーを選んだ。アプリを作る仕事だ。

ゲームが面白い、みんなで遊びたい、それなら玉石混交のゲームソフト産業のなかでアタリショック任天堂ファミコンクソゲー粗製乱造みたいのでなく、良いものを作ってくれるメーカーを選んで株を買い、流通量を上げてみんなで共有すれば社会は良くなると思った。

だが、カプコンのゲームは面白いというとPSPと比べて3DSのモンハンはダメだったとネットでスコボコにされ、株価は下がり、俺は面白いゲームとは何かというのが自分の好みの独断独善でみんなには気に入ってもらえなかったと嘆き、そしてその後に待っていたのはニンテンドースイッチの供給不足とネット転売の増加であった。

そう、ソフトウェアは共有できるけど、それがハードウェアに依存するがゆえのゲーム機、ケータイ、パソコン等の本体の供給不足が起こって、パソコンはまあ大丈夫だが任天堂スイッチとアイフォンの供給が日本中に行き渡るには随分とトラブルが多かった。

まあ、共有という概念が理解できないとタイトルに付けたが、そういう問題ではなく、共有は理解できても共有するためにハードウェアと通信インフラが必要なので、物理的なハードルをクリアするためには日本国民や世界全員が同程度のスペックのコンピュータを持たないといけない。そうでないと理想は実現しない。

もちろん、そうなった後の世界でも問題は色々と山積みであろうと思われるが、理系専攻からコンピュータ専門学校という社会科を取らないで技術者になった俺の理想はそんなもんだった。

それで、機能打った手は銀行並びに証券会社の株式取得という個人投資的な金融緩和だ。スイッチはまだ持ってない、ケータイはアイフォンでなく富士通スマートフォン、そして持ち株は任天堂ソニー、各種ゲーム会社ではなく証券会社。

アイフォンが出る前には俺はIT企業勤務でNECの最高のケータイで電車やタクシーでワンセグを見ていた。ワンセグとはガラケーで見るテレビのことである。

ケータイでテレビを見る技術は日本独自のものであったが、これは面白いと皆に広めようとするとケータイの下請け各社がアップル傘下となり、へっぼい白黒のiPodがいきなりiPhoneに様変わりして世界市場を席巻したのだ。

それでも、当時の理想を曲げないのであれば、みんなが持って、自分が良いものを持てるまで量産を待つしか無い。そのために必死で働いていてくれる人がたくさんいる。俺はブログを書いてテレビを見て、つまらないパソコンゲームをたまに作る程度だが、その生活の普及ですら、既にIT株やテレビの広告商品を買うだけでなく材料調達とかに投資する必要性が出始めている。

もちろん、スイッチを転売する人だって悪者扱いだが生産力を持たず資本も持たず職につくことが出来ないプロレタリアである可能性だって否定できない。買ったなら、開封して遊べと思っても、遊ぶカネがないから金持ちが高値で買うことを見越して問屋ではなく市販価格で仕入れているのだろう。腹立たしさやもどかしさはあるが「みんなの得」はそれくらいの辛坊が出来ないと実現できない理想である。

だんだんと、もうそんな理想どうでも良くなってきている。利己的に生きれば、多分もっと楽なのだろうと思うのだが、自分の理想を捨ててしまうとただ退屈な日々なのである。

子供の時から忙しかった時期なんて思い返しても少しだけだ。だからゲームに興じた。そしてそれが幸福だと思った。その共感を得たかった。それを「皆が幸福に」は言い過ぎだった。


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