局所的な問題か俯瞰的な想像か。ミクロとマクロの視点から。

俺は生まれて育って生きてきた中で様々の体験をしてきている。

分かるのは身の回りで起こったことに対する記憶の反芻だけであり、耳目がある以上は聞いたことと見たことから想像と思考を介して手を動かしたり口で話したりする。

中学理科くらいまでは、実験を通して目でわかるようなことを学ぶが、高校で世界史を学んでも近畿より遠いところなど行ったこともない生徒に世界の何が分かるのかというと教科書に書いてあることと教師が話したり黒板に書いたことになる。もっと分かるやつというのは旅行に行ったりテレビで旅番組や歴史物を見たり、映画でも観たり教科書以外の本を読んでいたりするものだ。ついでに言うと理科も高校くらいで卓上計算になり、事象と乖離する。

一旦そうなった頭で理論と体験を結びつけて世界理解をして考えて行動に移す時に、こと俺の場合には奇行とも言える他人から不可解な行動を取ってきた。俺のは俺の未来観と現状世界に対する理解と、そして世界を自分の思ったとおりに変容させたいという願いから、常に自信を持ってそうなるように行動してきた。つもりだ。

それで俺は俺が学んだ中から描いた世界観があり、それはともすると創作に近く、他人に見えているものと俺の見ているものは隣同士で視野角が5度ほど違っても俺以外のふたりにはほぼ同じものとして映っていても、俺と誰かのふたりでは全く違う世界として映っているようだ。それは視野角が5度違うからではなく、立ち位置を反対に入れ替えて見ても起こるギャップなのだ。

児童小説「モモ」のなかで不思議な亀のあとをついていくとゆっくり歩いているのに人波をかき分けてあっという間に目的地に着く話があるが、俺もよく誰かと競争した時に決して動きが速いわけではない、徒競走などではむしろ遅いほうなのに、何かの目的を人より早く達成してしまい不思議がられることがあった。人並みをかき分けて進めるのは俺の前に不思議な亀がいるからでなく、俺の身長が高いから人並みの中で人の動きを少し高いところから俯瞰できるからだろうとは思っている。

ではそれ以外の目的達成競争の場合はどうか。それは間違いなく物事を俯瞰的に見ていて、目で見たこと以上に想像で完成形を考えて、結果が相手からそう見えるように組み立てているからだと思う。どちらかというと高校の世界史の話を先に出したが、そういう俯瞰ではなくゴジラ映画のような特撮の仕組みを知っていて、映像的にそうなるという俯瞰なのだ。児童小説モモの例えも多分関係なかったが、読まされたので活用しておく。

まあ、身も蓋もない言い方をすると「ずるい」のだろう。だが、損得の絡む「ずる」ではなく手品のようにちょっと驚かせたい。「驚くのは楽しいことだ」という感覚から来るドッキリ的なだましのロジックを日常にふんだんに盛り込んで暮らしているのだろう。

魔法使いのように俺はなりたかった。だが世の中には冗談のだましを受け付けずペテンだと排撃してしまう人から俺は社会から阻害されてしまったような感覚を今は持っている。それは俺が編み出した技がそっくりそのまま本当のペテン師に悪用されて、それに騙された人が俺のせいだと思ってしまったからだろう。種を考えた責任はあるが、罪としては擦られたとしか言いようがない。

昔はもっと自信があったが、この魔法合戦は身に危険が及ばないように隠れて生きるしか今は術を思いつかないのだ。


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